ヴィック・モロー
ヴィック・モロー(Vic Morrow、1929年2月14日 - 1982年7月23日)は、アメリカ合衆国の俳優で、製作や脚本も手掛けることもある。 本名ヴィクター・モロゾフ(Victor Morozoff)。「ビック・モロー」と表記されることが多く、「ヴィック・モロウ」とも表記される。また、新聞のテレビ欄などでは「ビッグ・モロー」表記も見られるが、誤りである。 経歴ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区のロシア系ユダヤ系の両親の間に生まれる[1]。17歳で高校を中退し、海軍に入隊。軍務を終えてから、夜学に入学し直してハイスクールを卒業。 フロリダのサザン大学で法律を学んだが、メキシコシティ・カレッジ演劇科に転校。卒業後、地方劇団、ニューヨークのアクターズ・ワークショップを経て、オフ・ブロードウェイの舞台に進出。 1955年に『暴力教室』で映画デビューし、映画ではアンソニー・マン監督の朝鮮戦争を題材にした『最前線』(1957年)でタフガイぶりを見せ、後年のキャリアを決定付けた。『ボナンザ』や『スパイ大作戦』、『鬼警部アイアンサイド』等のテレビ・シリーズにも多数ゲスト出演し、1962年にはテレビシリーズ『コンバット!』の主役・チップ・サンダース軍曹役に抜擢され、足掛け6年の長期に渡って出演し、人気を不動のものとするが、イメージの固定に悩んだ。 『コンバット!』では監督にも進出し、脱「コンバット!」を目指す1969年にはマカロニ・ウエスタン『スレッジ』の監督(英語版でのクレジット、イタリア版ではジョルジオ・ジェンティーリ)も務めた。その後、アクの強い個性派俳優としてジョン・ハフ監督の『ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー』(1974年)やフランスのルネ・クレマン監督の『危険なめぐり逢い』(1975年)、マイケル・リッチー監督の『がんばれ!ベアーズ』(1976年)等で、脇役ながらも強い印象を残すが、主戦場はテレビ界であった。また、黒人奴隷問題が題材の史劇テレビ・ミニ・シリーズ『ルーツ』(1977年)にも奴隷商人役で出演し、ローン・グリーンやチャック・コナーズ等、テレビで活躍した俳優が共演していた。 1978年には日本の東映のスペース・オペラ物で深作欣二監督作品の『宇宙からのメッセージ』や韓国映画にも招かれ、イタリアのエンツォ・G・カステッラーリ監督の『最後のジョーズ』(1981年/未/テレビ放映/ビデオ)や敵役を演じた『ブロンクス・ウォリアーズ/1990年の戦士』(1982年/未/テレビ放映/ビデオ)といった米国ロケのイタリア映画にも出演した。 1982年に、『トワイライトゾーン/超次元の体験』第1話(ジョン・ランディス監督)で、人種差別主義者だったのが、逆に差別される立場になってしまうという男性を演じる。クライマックスであるベトナム戦争のシーンをロサンゼルス北80kmの砂漠にて撮影中、頭上から模擬爆弾の爆風を受けたヘリコプターが落下。共演していたベトナム出身の2人の子供と共にローターに巻き込まれて死亡(ヘリコプターの搭乗員は無傷だった)。このためにラストシーンが変更され、この事故のシーンは映画に採用されなかったが、日本の映画『ザ・ショックス 〜世界の目撃者〜』(日本テレビ製作)や、テレビ特番の衝撃映像集で数回取り上げられている。 『トワイライトゾーン/超次元の体験』の出演は、本人にとっては再起を図った作品であっただけに、その死が悼まれた。 なおヴィックの人差し指は、生まれつき奇形であった。『コンバット・クロニクル』によれば、彼はトミーガンの引鉄を中指で引いていたが、一切画面には映さないようにしていたという。 プライベート私生活では、1957年にバーバラ・ターナーと結婚。2人の娘をもうけるが、1964年に離婚。次女は女優のジェニファー・ジェイソン・リー。1975年に再婚するが、1年足らずで再び離婚。 出演作品映画
テレビシリーズ
脚注
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