ヴァルティスラフ7世 (ポメラニア公)
ヴァルティスラフ7世(ヴァルティスラフ7せい、ドイツ語:Wartislaw VII., 1363/5年 - 1394/5年)[1]またはヴァルチスワフ7世(ポーランド語:Warcisław VII)は、ポメラニア=スウプスク(シュトルプ)公(在位:1377年 - 1394/5年)。全名はハインリヒ・ヴァルティスラフ(ヘンリク・ヴァルチスワフ)である[2] 。 生涯ヴァルティスラフ7世はボギスラフ5世の息子で、カシミール4世およびボギスラフ8世の兄弟である。メクレンブルク公ハインリヒ3世の娘マリアと結婚し、ボギスラフ(後のデンマーク王エーリク7世)およびカタリーナが生まれた。 1377年、ヴァルティスラフはポメラニア=スウプスク公として、弟ボギスラフ8世とともに共同統治者となった。ヴァルティスラフはドイツ騎士団とポーランド王国という2つの地方勢力の間をうまく立ち回った。1386年、ヴァルティスラフはドイツ騎士団と同盟を結んだ。しかし1390年に、ピズドリ条約によりポーランドと同盟を結び、ポーランド王ヴワディスワフ・ヤギェウォに臣従を誓った。その見返りに、ヴァルティスラフはポーランド王からナクウォを受け取った。 1392年から1393年にかけて、ヴァルティスラフは聖地に向け巡礼を行った[1]。いくつかの資料によると、巡礼は1391年にすでに始めていたが、1392年7月にボアディングボーに滞在したとみられる[3]。1392年8月1日、ヴァルティスラフ7世、弟ボギスラフ8世およびカンミン司教区の聖職者数名は、ブランデンブルクのランツベルク・アン・デア・ヴァルテ(現在のゴジュフ)においてレブス司教ヨハンおよびゲルリッツ公ヨハンと面会した。ボギスラフ8世はポメラニアに戻り、ヴァルティスラフ7世はポメラニア公ヴァルティスラフ8世と会うために南へ向かった。その後、2人のヴァルティスラフはハンガリーに向かった。ベオグラード(当時はハンガリーの一部、現在はセルビアの一部)の南東にある町スメデレヴォ[注釈 1]においてヴァルティスラフ7世が病気になったため、ヴァルティスラフ7世は1393年にポメラニアに戻り、ヴァルティスラフ8世は単独で巡礼を続けた[5]。 ヴァルティスラフ7世の不在の間に、ポメラニアの貴族マツケ・フォン・ボルケ・アウフ・シュトラメールがポメラニア=シュトルプで強盗を率いていたが、そこで1392年後半にボヘミア人のドイツ騎士団隊長(Komtur)ヨハン・フォン・ミュールハイムがドイツ騎士団領に向かう途中で強盗に遭った。ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ヴァレンローデは、ヴァルティスラフ7世とボギスラフ8世の宮廷で抗議を行い、賠償を要求した。ヴァルティスラフ7世とボギスラフ8世はその後、マツケの居所シュトラメールを破壊する許可をヴァレンローデに与え、最終的に取り壊された[6]。 ヴァルティスラフ7世は1394年11月から1395年2月23日までの間に死去した[1]。 注釈脚注
参考文献
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