ロバート・ギンティ
ロバート・ウィンスロップ・ギンティ(Robert Winthrop Ginty 1948年11月14日 - 2009年9月21日)は、アメリカの俳優、テレビドラマ監督。 来歴ニューヨーク・ブルックリン区生まれ[1] 。幼少期から音楽に親しみ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、カルロス・サンタナ、ジョン・リー・フッカーなどを愛好していた[2]。ミュージシャン志望だったが、後に俳優志望に転向、イェール大学で演劇を学び、ネイバーフッド・プレイハウスとアクターズ・スタジオで修業した。 1970年代にカリフォルニア州に移り住み、テレビドラマや映画に出演するようになり、1980年、『エクスタミネーター』の主演に抜擢される。以降、B級アクション映画を中心に出演する一方、1990年代からはテレビドラマの監督も勤めた。 スターへの道のり 1974年辺りからテレビ・シリーズのゲスト出演(主役ゲストではない)をこなす様になり、『ロックフォードの事件メモ』等がある。 映画にはラリー・ピアース監督の『パニック・イン・スタジアム』(1976年)やハル・アシュビー監督の『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(1976年)と『帰郷』(1978年)に端役出演していた。 1979年にテレビ・シリーズ『ペーパー・チェイス』(1974年製作の映画のテレビ版)のレギュラーに抜擢されたが、『白バイ野郎ジョン&パンチ』や『アーノルド坊やは人気者』等のテレビ・シリーズにゲスト出演しながらチャンスを待った。 出稼ぎ俳優としての活動 ジェームズ・グリッケンハウス監督の『エクスターミネーター』(1980年)で演じたベトナム戦争帰りの復讐鬼役で注目されたが、おいそれとはスターダムにはのし上がれず、『ナイトライダー』等のテレビ・シリーズにゲスト出演をこなしながら糊口をしのいだ。 そんな不遇な中、香港の悪名高きフィルマーク・インターナショナルとタイ映画界との合作でP・シャロン監督の『ゴールド・レイダース』(1982年/日本では1987年作として紹介/未/ビデオ)やキャリアの停滞期にあったフレッド・ウィリアムスンと共演したイタリア映画『近未来戦争/オメガ帝国の崩壊』(1984年/未/ビデオ)、フランスのジャン=マリー・パラディー監督の仏・伊・土合作の『ホワイト・ファイア/地獄の報酬』(1984年/未/ビデオ)で、いずれも主役を演じた。しかし、ドサ回り的な仕事内容だった。 1987年には南アフリカ共和国で傭兵物『コードネーム・ウルフ(テレビ放映題/地獄のエクスタミネーター)』(未/ビデオ)で主演し、同地のアクション俳優であるジェームズ・ライアンとの共演だった。また、『怒りの報酬(怒りのエクスタミネーター/死の標的)』(1989年/未/ビデオ/テレビ放映)も南アフリカ共和国との合作だった。他にも『必殺コマンド』(1985年)のメキシコ・ロケ等、意外にも外国での仕事が少なくない。 1990年代に入るとイタリアのウンベルト・レンツィがハンフリー・ハンバート名義で監督した刑事物『コップ・ターゲット/狼の牙』(1990年)の主役やシンシア・ラスロックとリチャード・ノートンと共演したインドネシア映画『リベンジ・オブ・デス』(1992年/未/ビデオ)では悪役を演じた。監督は『キックボクサー』(1989年)の米国人監督デーヴィッド・ウォースが当たった。 以上の様に専らB級アクション映画のキャリアの様であるが、1987年にはジェス・フランコやジャン・ローランの作品で知られるフランスのユーロシネ制作のホラー映画『キラー・マニア/殺人遊戯』に出演した。共演はイタリアや東南アジア方面への出稼ぎも少なくないボー・スヴェンスンとチャック・コナーズだった。 監督としての活動 1989年には現代の賞金稼ぎを題材にした『バウンティ・ハンター』で監督業に進出し、脚本も手掛けた。また、翌年の1990年にはリトル・サイゴンを舞台にしたベトナム帰りの神父が活躍する『ベトナムU.S.A.』を製作・監督した。両作はギンティが主演も兼任したワンマン映画だった。因みに、この2作品は日本でも劇場公開された。 この流れで、テレビ・シリーズの監督も手掛ける様になり、日本ではテレビ東京でも放送された1996年の『刑事ナッシュ・ブリッジス』等がある。尚、晩年は殆ど監督業に専念していた。 プライベート3回結婚して、3人の子供をもうけ、息子ジェームズ・フランシス・ギンティも俳優になった[2]。2009年9月21日、癌で死去[3]。60歳。 主な出演作品映画
テレビシリーズ
その他映画評論家・ギンティ小林のペンネームは、熱愛する彼の名前に由来している。 脚注
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