リチャード3世の遺体探しは2012年8月に始まり、「リチャード探し(Looking for Richard)」と銘打たれたこのプロジェクトは、リチャード3世協会(英語版)の支援を受けて進められた。発掘調査は地元自治体であるレスター・シティ・カウンシル(英語版)協力の下、レスター大学発掘調査隊が中心を担った。発掘初日、30代男性と思われる遺骨が発見されたが、遺体にはひどい外傷痕が残され、脊椎側彎症所見を含めいくつか身体的特徴があり、科学的分析のために全身が発掘された。男性の死因は、大きな刃の武器(例えばハルバードなど)の一振りで、脳に至るまで頭蓋骨後方を斬り付けられたこと、また脳を貫くように剣で突かれたことのどちらかと考えられ、遺骨に付けられたその他の傷は、死後の復讐という意味合いの「恥辱の傷(humiliation injuries)」として死後に付けられた可能性がある。
リチャード3世の遺体は裸にされてレスターへ運ばれ[4][5]、当地で公衆の面前に晒された。詠み人不明の『ボズワース・フィールドのバラード(英語版)』では、「ニューアークに横たえられ、大勢が彼を見物に来た」"in Newarke laid was hee, that many a one might looke on him" と書かれているが、これは中世レスターの郊外にあるランカスター派創設の教会、ニューアークの聖母受胎告知教会(英語版)と考えられている[6][7]。年代史家ポリドール・ヴァージル(英語版)によると、ヘンリー7世はロンドンへ向かう前にレスターへ「2日間滞在し」("tarried for two days")、ヘンリー7世の出発と同日の1485年8月25日に、リチャード3世の遺体は「レスターにあるフランシスコ会の修道院に」「葬儀もなしに」("at the convent of Franciscan monks [sic] in Leicester" / "no funeral solemnity") 埋葬された[8]。ウォリックシャーの司祭・好古家だったジョン・ラウス(英語版)は、1486年から1491年にかけての記述で、リチャード3世は「レスターの小修道院のクワイヤの中へ」("in the choir of the Friars Minor at Leicester") 埋葬されたと記録している[8]。リチャード3世の埋葬場所は別の場所だとする後世の記述も散在していたが、現代の調査者たちの間ではヴァージルとラウスの記述が最も信用できるものだと考えられていた[9]。
埋葬から10年後の1495年、ヘンリー7世はリチャード3世の墓の目印として、大理石・アラバスターでできたモニュメントを作らせた[10]。製作費については支払いを巡る係争に絡んだ法的書類に記録されており、墓の作成とノッティンガムからレスターまでの搬送に対して、2人の男がそれぞれ£50、£10.1sを受け取ったことが記載されている[11]。墓に関する一人称記載は残っていないが、1577年にラファエル・ホリンズヘッドが「[リチャード3世の]人となりを示すアラバスターの肖像画」("a picture of alabaster representing [Richard's] person") が組み込まれていると記述している(恐らくは直接見た人物の記載を引用している)[12]。40年後、サー・ジョージ・バック(英語版)は「彼の肖像画で飾られた混色大理石の美しい墓」("a fair tomb of mingled colour marble adorned with his image") だったと述べており、墓にあったエピタフも記録している[12]。
1538年に行われたグレイフライアーズの修道院解散に伴い修道院の建物は取り壊されたが、記念碑もまた取り壊されたか、風雨に晒されて緩徐に朽ち果てたと考えられている。修道院の跡地はリンカンシャーの土地相場師2名に売り渡され、その後レスター市長ロバート・ヘリック (Robert Herrick) が取得した(彼は詩人のロバート・ヘリック(英語版)のおじである)。市長ヘリック卿はフライアリー・レーン (Friary Lane) 近くに大邸宅を建て(現在はグレイ・フライアーズ・ストリート (Grey Friars Street) の地下に埋められている)、残りの部分を庭園に改装した[13]。リチャード3世の記念碑はこの時までに失われていたが、それでも墓の場所は広く知られていた。古物商のクリストファー・レン(同名の建築家の父)は、ヘリックが墓の場所に3フィート (0.91 m)ある石柱製の記念碑を建て、「ここにリチャード3世が眠る、かつてイングランド王だった者」("Here lies the Body of Richard III, Some Time King of England.") と刻んだことを書き残している[14]。石柱は1612年の段階で確認出来るが、1844年までには再び失われた[15]。
地図学者・古物商のジョン・スピード(英語版)は1611年の自著 "Historie of Great Britaine" の中で、リチャード3世の遺体は「市外に運ばれ、尊厳もないままに、町の西側を流れるソー[川]の支流に架かるバウ橋のたもとに流された」("borne out of the City, and contemptuously bestowed under the end of Bow-Bridge, which giveth passage over a branch of Soare upon the west side of the town.") と地元で伝承されていると綴っている[16]。彼の記述は後世の文筆家たちに広く受け入れられた。1856年には地元の建築業者の手によって、バウ橋の隣にリチャード3世の記念案内板が立てられ、「この場所近くに1485年に世を去ったプランタジネット家末裔のリチャード3世が眠る」("Near this spot lie the remains of Richard III the last of the Plantagenets 1485.") と刻まれた[17]。1862年には橋付近の河川堆積物から人骨が見つかり、リチャード3世が発見されたと話題になったが、詳しい調査の結果20代前半の男性と判定され、リチャード3世ではないと結論付けられた[17]。
スピードの記載の原典が何かは不明なままである。記載には出典がなく、先行する文献も見つかっていない[17]。著述家のオードリー・ストレンジ (Audrey Strange) は、1428年にジョン・ウィクリフの遺体がラターワーズ(英語版)近くで冒涜された一件と混同したのではと示唆している(暴徒がウィクリフの遺体を発掘し、骨を燃やしてスウィフト川(英語版)へ投げ捨てた)[18]。イギリスの歴史家ジョン・アッシュダウン=ヒル(英語版)は、スピードがリチャード3世の墓の位置を勘違いし、墓がないことに対する合理的な説明を考えたのではないかと述べている。もしスピードがヘリックの地所を訪れていれば記念碑と庭園は見られたはずだが、代わりに彼はこの場所について「イラクサや雑草が生い茂っている」("overgrown with nettles and weeds") と書いているほか[19]、墓の痕跡は見られなかったとしている。スピードが書いたレスターの地図では、グレイフライアーズの位置としてかつてブラックフライアーズ (Blackfriars) があった場所が描かれており、このことからも彼が墓の位置を勘違いしていたことが窺われる[19]。
また別の地域伝承では、リチャード3世の遺体は石棺に納められたとあるが、スピードはこれも今や「普通の宿場で馬に水を飲ませる飼い葉桶になっている」("now made a drinking trough for horses at a common Inn.") と記している。棺があったのは事実のようで、ジョン・イーヴリンは1654年の訪問を記録しているほか、1700年に訪れたセリア・ファインズ(英語版)は、「彼が眠る墓石の欠片を見たが、その身体が眠る通りの形に切り出されていた。[棺は]レスターのグレイハウンド・[イン]で見られるが、一部が壊れている」("a piece of his tombstone [sic] he lay in, which was cut out in exact form for his body to lie in; it remains to be seen at ye Greyhound [Inn] in Leicester but is partly broken.") と書いている。1758年には歴史家のウィリアム・ハットン(英語版)が棺を見つけ、この頃には「時が成せる破壊に耐えきれず」("not withstood the ravages of time")、既に朽ちた状態だったと綴っている(この頃にはギャロウツリー門 (Gallowtree Gate) のホワイト・ホース・イン (White Horse Inn) で保管されていた)。棺がどこにあるのかは既に分からなくなっているが、様々な描写を見る限り15世紀末の様式には合致せず、リチャード3世と関係があった可能性も低い。むしろ、修道院解散に伴う取り壊し作業の後、何らかの宗教施設から持ち出されたもののひとつである可能性が高い[17]。
リチャード3世の遺体の在処は、王の貶められた名誉回復を目的にした団体・リチャード3世協会(英語版)のメンバーにとって注目の的であり続けた。1975年にはオードリー・ストレンジが、協会の学会誌 "The Ricardian" へ、リチャード3世の遺体はレスターシャー・カウンティ・カウンシルの駐車場に埋まっているのではないかという学説を発表した[22]。同じ言説は1986年にも繰り返され、歴史家のデイヴィッド・ボールドウィン(英語版)が遺体は現在でもグレイフライアーズ地区にあるとした[23]。彼は「(今ではありえないだろうが)、21世紀のどこかで、発掘者がこの有名な君主の遺体の一部でも見つけることがあるかもしれない」("It is possible (though now perhaps unlikely) that at some time in the twenty-first century an excavator may yet reveal the slight remains of this famous monarch.") と述べている[24]。
2009年2月、ラングリーとカーソン、アッシュダウン=ヒルは、リチャード3世協会の一員であるデイヴィッド・ジョンソンとその妻ウェンディ (David & Wendy Johnson) に対し、「リチャードを探して:王探し」"Looking for Richard: In Search of a King" と銘打ったプロジェクトの開始を働きかけた。プロジェクトの前提はリチャード3世の墓を探して「同時に本当の物語を語る」("while at the same time telling his real story") ことであり[21][31]、その目的は「ボズワースの戦いでの死後、著明に否定された彼の名誉・尊厳・敬意をもって、遺体を探し、取り戻し、再埋葬すること」("to search for, recover and rebury his mortal remains with the honour, dignity and respect so conspicuously denied following his death at the battle of Bosworth.") にあった[32]。レスターの意思決定者たちからの支援を取り付けるため、ラングリーはテレビドキュメンタリー用にダーロウ・スミス・プロダクションズ(英語版)からの資金調達を取り付け、彼女は同番組を「指標となるテレビスペシャル」("landmark TV special") と想定していた[21]。
発掘調査の計画はリチャード3世協会の雑誌 "Ricardian Bulletin" 2012年6月号に掲載されたが、1か月後にはメインスポンサーのひとつが1万ポンドの資金不足を残して撤退した(ただし、その後複数のリカーディアン(英語版)団体の人々から2週間で13,000ポンドの寄付が寄せられた)[38]。作業開始にあたり、2012年8月24日にレスターで記者会見が行われた。考古学者のリチャード・バックリー (Richard Buckley) は、「我々は埋葬場所だけでなく、教会がどこにあったのかという正確な位置すら知らない」("We don't know precisely where the church is, let alone where the burial site is.") と述べ、計画は長期戦になるだろうと認めた[39]。この前にバックリーは、計画自体のオッズについてラングリーへ、「よくて教会を見つけるのが50%、墓を見つけるのが10%の確率」("fifty-fifty at best for [finding] the church, and nine-to-one against finding the grave.") と述べていた[40]。
アッシュダウン=ヒルの調査は、2003年にリチャード3世の姉マーガレット・オブ・ヨークのDNA配列を得ようとした際の成果であった(この年、彼女の埋葬地であるベルギー・メヘレンにあるフランシスコ会の教会から見つかった遺骨の鑑定が行われていた)。彼はオックスフォード・アシュモレアン博物館に納められているエドワード4世(リチャード3世の兄王)の毛髪からミトコンドリアDNAを抽出しようとしたが、DNAは劣化しており抽出には失敗した。アッシュダウン=ヒルは代わりにリチャード3世の母セシリー・ネヴィルの母系子孫を系譜学的に辿ることにした[54]。2年後、彼は第二次世界大戦後にカナダへ移住したイギリス生まれの女性ジョイ・イブセン(旧姓ブラウン、英: Joy Ibsen (née Brown))がリチャード3世の姉アン・オブ・ヨークの直系子孫であることを突き止めた(彼女はリチャード3世の16代めいに当たる)[55][56]。イブセンのミトコンドリアDNAを調べた結果、ハプログループJ(英語版)に属していることが分かり、リチャード3世のミトコンドリアDNAのハプログループも推定された[57]。イブセンのミトコンドリアDNAにより、メヘレンで見つかった人骨はマーガレットのものではないことが判明した[54]。
リチャード3世の専門家であるマイケル・ヒックス(英語版)教授は、遺体がリチャード3世のものと証明するのにミトコンドリアDNAを使用することへひどく批判的で、「直系の母系遺伝で同じ母方先祖を持っている男性なら誰でも適格者だ」("any male sharing a maternal ancestress in the direct female line could qualify") と述べた。彼はまたレスターのチームがY染色体不一致を発表したことを批判し、レスターのチームが遺骨はリチャード3世のものだと結論付けても受け入れられないとした。彼は現在の科学的証拠に基づき、「リチャード3世と鑑定されるなんてあるわけない」("identification with Richard III is more unlikely than likely") と主張した。一方でヒックス自身は、リチャード3世の祖父リチャード・オブ・コニスバラがその母イザベラ・オブ・カスティルとエクセター公爵ジョン・ホランド(ヘンリー4世の義兄)の間に生まれた非嫡出子なのではないかという現代の説に注意を払っている(イザベラの本来の夫はエドワード3世の四男エドマンド・オブ・ラングリーである)。この一件が真実とすればボーフォート家とのY染色体の不一致は説明できるが、一方で遺体の身元証明にはなりえない。ヒックスはリチャード3世の母系子孫に繋がる別の候補者を示唆したが(例えばエグレモント男爵トマス・パーシー(英語版)やリンカーン伯爵ジョン・ド・ラ・ポール)、自身の提案を支える証拠を得ることはできなかった。フィリッパ・ラングリーは証拠も集められなかったとしてヒックスの言説に反論した[68][69]。
頭部外傷は1485年にグトー・グリン(英語版)が書いた詩の文章と一致していて、この中でグリンはウェールズ人騎士のサー・リース・アプ・トーマス(英語版)がリチャード3世を殺して「猪の頭を剃った」("shaved the boar's head") と書いている[79]。この記載はリチャード3世が斬首されたことの比喩表現と考えられていたが、遺体の頭には斬首の痕がなかった。頭蓋骨の創を見る限り、詩の記述は文字通りリチャード3世の頭がそぎ取られたことを示していると考えられる(骨がそぎ取られていたということは頭髪や皮膚も一緒に削がれた可能性がある)[79]。当時の他の記述でも、リチャード3世の受けた頭部外傷と、致命傷を負わせた武器について明らかな記述がある。フランス人の年代記家ジャン・モリネ(英語版)は「ウェールズ人のひとりが彼の元にやってきて、ハルバードで死に至らせた」("one of the Welshmen then came after him, and struck him dead with a halberd.") と書いており、『レディ・ベッシーのバラード』"Ballad of Lady Bessie" では「彼らは脳みそから血が出るまで、彼の頭へ[王の]バシネット(英語版)を打ち付けた」("they struck his bascinet to his head until his brains came out with blood.") と書かれている。これらの記述は王の頭部に与えられた外傷を確かに説明しうるものである[78][80]。
2013年2月4日、レスター大学は遺骨がリチャード3世のものだったと確証した[86][87][88]。ミトコンドリアDNA鑑定、土壌鑑定、歯形鑑定、遺骨の身体的特徴がリチャード3世の外見と合致することから、遺体の身元はリチャード3世のものと同定された。骨学者のジョー・アップルビーは、「遺骨は細身の骨格、脊柱側弯症、そして戦傷といくつもの珍しい特徴を有している。これらは全てリチャード3世の人生や死の状況について知られている情報と合致している」("The skeleton has a number of unusual features: its slender build, the scoliosis, and the battle-related trauma. All of these are highly consistent with the information that we have about Richard III in life and about the circumstances of his death.") と述べた[86]。
発掘調査とその後の科学的分析を巡る物語は、チャンネル4にてドキュメンタリー "Richard III: The King in the Car Park"(直訳『リチャード3世:駐車場の王』)にまとめられ、2013年2月4日に放送された[92]。番組は490万人が観たヒット番組となり[93]、ロイヤル・テレビジョン・ソサエティ賞を獲得した[94]。チャンネル4は続編として2014年2月27日に "Richard III: The Untold Story"(直訳『リチャード3世:語られざる物語』)を放送し、こちらでは遺骨の身元同定に繋がった科学的・考古学的分析に主眼が置かれた[93]。
2012年の発掘で見つかっていた石棺が初めて開けられることになり、その中に更に鉛の棺が納められていたことが分かった。内視鏡検査により、毛髪と死に装束・紐の一部が残る遺骨が納められていることがわかった[95]。この遺骨は当初男性と考えられ、当地に葬られたと知られていた騎士サー・ウィリアム・デ・モートン (Sir William de Moton) のものと考えられていたが、後の調査によって女性のものと分かった(恐らくは上流階級の女性寄進者と考えられている)[96]。鉛の棺は長距離移送に使われていたため、彼女は地元の人物とは限らない[95]。
リチャード3世の兄弟の子孫を自称する団体プランタジネット同盟(英語版)が法廷闘争に持ち込んだことから、埋葬場所は1年近くにわたって宙ぶらりんのままになった[103]。自らを「陛下の代理人にして代弁者」("his Majesty's representatives and voice") と称するこのグループは[95]、リチャード3世はヨーク・ミンスターに埋葬されるべきで、それこそが彼の「望み」("wish") なのだと主張した[103][104]。レスター大聖堂主任司祭(英語版)はこの法廷闘争自体が「冒涜」("disrespectful") と述べ、この問題が決着するまで一銭も出資しないと述べた[105]。歴史家たちは、リチャード3世がヨークへの埋葬を望んでいた証拠はどこにもないと証言した[95]。ヨーク大学のマーク・オームロッドは、リチャード3世が自身の埋葬場所について具体的な案を考えていたとは思えないと懐疑論を示した[106]。プランタジネット同盟の存在自体が議論の的となった。数学者のロブ・イースタウェイ(英語版)がリチャード3世のきょうだいには100万人以上の存命子孫がいると算出し、「我々全員にレスターかヨークか投票する権利があるに違いない」("we should all have the chance to vote on Leicester versus York.") と揶揄した[107]。
2013年8月、チャールズ・ハッドン=ケイヴ(英語版)判事は、当初の埋葬計画が「リチャード3世の遺体がどのように、そしてどこへ適切に改葬されるべきか、広く諮る」("to consult widely as to how and where Richard III's remains should appropriately be reinterred") というコモン・ローの義務を無視ししたことから、司法審査を行う許可を与えた[104]。司法審査は2014年3月13日に始まり、2日で終わる予定だったが[108]、最終決定は4〜6週間繰り延べられた。ヘザー・ハレット(英語版)判事はダンカン・ウーズリー(英語版)判事、ハッドン=ケイヴ判事と共に、裁判所は判決を検討するため時間を要するのだと述べた[109]。5月23日、高等法院は「諮問の義務がない」("no duty to consult")、「裁判所が[埋葬を]妨げる典拠となるいかなる法律も存在しない」("no public law grounds for the court to interfere") と述べ、レスターでの再埋葬が可能となった[110]。訴訟には24万5千ポンドがかかったが、これは元の調査にかかった金額よりはるかに高額であった[85]。
再埋葬と記念行事
2015年に作られたリチャード3世の墓
1982年にレスター大聖堂のチャンセルへ設置された記念の石板
改葬に合わせレスター大聖堂敷地内へ移されたリチャード3世像
2013年2月、レスター大聖堂はリチャード3世の遺体改葬に向けた手順と日程表を発表した。大聖堂幹部たちは、大聖堂内の「名誉ある場所」("place of honour") に埋葬する計画を立てた[111]。1982年にチャンセルへ設置された記念の石板を修正するような形で、平らなレジャー・ストーン(英語版)を設置するという当初の計画は[112]、不人気に終わった。リチャード3世協会のメンバーやレスター市民の住民投票では箱型の墓が一番人気であった[113][114]。2014年6月にはキルケニー・マーブル(英語版)製台座の上にスウェールデール(英語版)産化石でできた箱型の墓が載ったデザインが公表された[115]。この月、レスターのキャッスル・ガーデンズ (Castle Gardens) にあったリチャード3世像が再設計されたカテドラル・ガーデンズ(レスター大聖堂内の庭園)に移され、庭園は2014年7月5日に再公開された[116]。
レスター大学発掘調査隊のリチャード・バックリーは、リチャード3世がもし見つかれば「自分の帽子を食う」("eat his hat") と息巻いていたが、同僚が焼いた帽子型のケーキを食べてこの約束を果たした[100]。後にバックリーは次のように述べている。
最先端の研究がこの計画に注ぎ込まれ、仕事はまだ始まったばかりである。非常に精密な炭素年代測定や医学的証拠などの知見は、その他の研究の目標点となるだろう。そして勿論、これは信じられないほど素晴らしい物語である。彼自身は議論の多い人物だが、人々は駐車場の下から彼が見つかったという事実を愛し、全ての事柄が最も驚嘆すべき方法で明らかになった。埋め合わせなんてできないだろう。 (Cutting-edge research has been used in the project and the work has really only just begun. The discoveries, such as the very precise carbon dating and medical evidence, will serve as a benchmark for other studies. And it is, of course, an incredible story. He's a controversial figure; people love the idea he was found under a car park; the whole thing unfolded in the most amazing way. You couldn't make it up.)[130]
本当に長い間、レスターの人々は自分たちの成果や自分たちが今住む街について奥ゆかしく生きてきた。今や——まずリチャード3世王の発見、次いでフォックシズ[注釈 5]の驚異的なシーズンに感謝だが——我々にも国際的なスポットライトの下に進むべき時が来たのだ。
For too long, people in Leicester have been modest about their achievements and the city they live in. Now – thanks first to the discovery of King Richard III and the Foxes' phenomenal season – it's our time to step into the international limelight.[131]
これら2つの出来事を基にして、2016年にはマイケル・モーパーゴが児童文学『弱小FCのきせき 幽霊王とキツネの大作戦』"The Fox and the Ghost King" を執筆したが、その筋書きは駐車場下の墓から解放された礼として、リチャード3世の幽霊がサッカーチームを手助けするというものになっている[132][133]。
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