ラヴレンチー年代記『ラヴレンチー年代記』(ラヴレンチーねんだいき、ロシア語: Лаврентьевская летопись)は、ルーシの年代記(レートピシ)の1つである。852年(それ以前の伝承なども含む)から1305年までの出来事がまとめられている[1]。書籍名は写本の1つ「ラヴレンチー写本」の奥付に記された、修道士ラヴレンチーの名にちなむ。 『原初年代記』に加筆する形で編纂されており、後世の『トロイツァ年代記(ru)』、『ノヴゴロド・ソフィヤ年代記集成』等に影響を与えた。 成立・構成『ラヴレンチー年代記』の原本は、11世紀の始め、『原初年代記』をヴィードゥビチ修道院の典院・シリヴェストルらが再編・加筆することによって成立した(「ラヴレンチー写本」(後述)の1110年の記事の後に、1116年の記述と共に「聖ミハイル(:ヴィードゥビチ修道院を指す)の典院シリヴェストルは年代記記者たちと共に著述をなした」という主旨の記述がある[2])。現存するこの年代記の写本としては、1377年に修道士ラヴレンチーらの手によって完成した[3]、「ラヴレンチー写本」が著名である。 『ラヴレンチー年代記』は、以下の資料に基づき編纂されている。
また、1096年の項に、『ウラジーミル・モノマフの庭訓(ru)』が挿入されており[4]、この挿入は他の年代記には見られない。ならびに1263年の項には『アレクサンドル・ネフスキー伝(ru)』からの挿入が見られる。 下敷きとなった原初年代記はキエフを中心とする南ルーシの出来事の記録に重点を置いている。一方、12世紀の記述より、ウラジーミルの動向に関心が移り、13世紀初頭の記事は、ロストフ公国に関する記事に大きく比重が傾いている。このことから、『ラヴレンチー年代記』は12世紀の北東ルーシに関する重要な史料の一つとなっている。 ニコライ・ベレジュコフ(ru) の説によれば、1110年 - 1304年間のうち101年は、3月を新年とする暦法(ru)が用いられている[5]。 写本
『ラヴレンチー年代記』の刊本(『ロシア年代記全集(ru)』所収)は、「ラヴレンチー写本」に、『ラジヴィフ年代記』、『モスクワ・アカデミヤ年代記(ru)』を参照して編纂されている。 出典
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