ラリー・オーディ
ラリー・オーディ(Larry O'Dea / Larry O'Day、本名:Larry Davies[1]、1944年 - 1997年6月30日)は、オーストラリアのプロレスラー。首都特別地域キャンベラ出身。 タッグパートナーだったロン・ミラーと共に、豪州マット界のプロモーターとしても活動した[5]。 来歴キャンベラ大学ではレスリングの選手として活躍し、オリンピックの代表候補にも選ばれたという[2]。プロ転向後は、当時オーストラリアでジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリングで活動。1964年から1969年にかけて、バディ・オースチン、モンゴリアン・ストンパー、レイ・スティーブンス、プロフェッサー・タナカ、ミツ・アラカワ、スカル・マーフィー、キラー・カール・コックス、ゴリラ・モンスーン、ビル・ミラーなど北米から参戦してくる強豪と対戦し、ファビュラス・カンガルーズの初代メンバーだったロイ・ヘファーナンのパートナーにも起用された[6][7][8][9][10][11]。 1971年、シドニー出身のロン・ミラーと共に渡米し、ベビーフェイスのタッグチーム、ジ・オーストラリアンズ(The Australians)としてNWAの南部テリトリーを転戦[2]。エディ・グラハムが主宰していたフロリダのCWFでは、8月2日にロニー・ガービン&オレイ・アンダーソンからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取[12]。以降もディック・マードック&ボビー・ダンカン、ジ・アラスカンズ、ジ・インフェルノスなどのチームを破り、同王座を通算4回に渡って獲得した[12]。テネシー地区ではスプートニク・モンロー&ノーベル・オースチンなどのチームと抗争を展開[13]。1972年5月19日にはNWAテネシー・タッグ王座も獲得している[14]。 1972年6月、ミラーとのオーストラリアンズで日本プロレスの『第2次ゴールデン・シリーズ』に初来日。開幕戦の後楽園ホール大会では、当時のアジアタッグ王者チームだった坂口征二&吉村道明と対戦した[15]。1973年10月には単独で全日本プロレスに来日。同時参加していたマードックやドリー・ファンク・ジュニアのパートナーとなって時折メインイベントにも出場し、ジャイアント馬場や鶴田友美と対戦した[16]。 1973年末、ワールド・チャンピオンシップ・レスリングの主宰者だったバーネットが、オーストラリアの興行権を売却してアメリカに帰国。その後、団体の運営はトニー・コロニーを経て、1975年よりオーディとミラーが引き継いだ[5]。以降はミラーと共に豪州マットを仕切り、アンドレ・ザ・ジャイアント、アーニー・ラッド、オックス・ベーカー、キラー・カール・クラップ、バグジー・マグロー、ブッチャー・ブラニガン、ブルーザー・ブロディ、そしてNWA世界ヘビー級王者のハーリー・レイスなどを北米から招聘[5]。レスラーとしても、相棒のミラーや若手時代のリック・マーテル、1960年代からの豪州のスターだったマリオ・ミラノらをパートナーに、NWA豪亜タッグ王座を再三獲得している[17]。 しかし、バーネット主宰時代のような活況を呈せず、テレビ放送の打ち切りやインディー団体の乱立もあって、ワールド・チャンピオンシップ・レスリングは1978年を最後に活動を停止[5]。以降は隣国ニュージーランドのオールスター・プロレスリングを主戦場とし、1980年にはパートナーのミラーを相手にNWA英連邦ヘビー級王座を争った[18]。 セミリタイア後はバーネットが相談役を務めていたアメリカのWCWに単発出場しており、1992年6月22日、サウスカロライナ州チャールストンで行われたNWA世界タッグ王座の争奪トーナメントに息子のジェフ・オーディと組んで参加したが、1回戦でテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスに敗退した[19]。 得意技獲得タイトル
脚注
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