ラット(Lat、1951年5月5日 - )、本名ダト・モハマッド・ノール・カリッド(英: Datuk Mohammad Nor Khalid、ジャウィ: محمد نور خالد)は、マレーシアで国民的な人気を持つ漫画家。
概要
13歳で最初の漫画本を出版して以来、20冊以上の作品を刊行してきた。マレーシアの社会と政治を題材として、偏見を交えず喜劇的な観点から描いた作品が主体である。代表作 The Kampung Boy(1979年、邦題『カンポンボーイ』)は世界各国で刊行された。1994年、作品を通じてマレーシア社会の和合と相互理解の醸成に貢献したことから、ペラ州のスルターンからダト(datuk)の称号を授けられた。2002年には福岡アジア文化賞を受賞した。
田舎の村落で生まれ育ち、11歳で都市部に移った。学校に通いながら新聞や雑誌に漫画を寄稿して家計を助け、13歳の時に初の著書 Tiga Sekawan を刊行した。高校卒業後は成績が不足していたため進学せずに新聞記者となった。その後1974年に風刺漫画作家に転身した。マレーシアの生活や国際社会に対する見解がよく表されたラットの作品は全国紙『ニュー・ストレーツ・タイムズ』や『ブリタ・ミング(英語版)』などで長期連載された。自身の経験に基づく自伝的作品『カンポンボーイ』と Town Boy(邦題『タウンボーイ』)では、村落と都市の暮らしを描きつつそれらを対比させた。
9歳の時から絵の才能を活かして家計を助けだした。初めは自作の漫画を友達に売るだけだったが[3]、その4年後の1964年に初めて作品を世に出した。地元の映画雑誌 Majallah Filem に掲載された3コマ漫画の稿料は映画のチケットであった[24][25]。初の漫画本 Tiga Sekawan(ティガ・スカワン、「3人の友達」)がシナラン・ブラザーズから刊行されたのは同年のことである。3人の男の子が協力して泥棒を捕まえる物語であった。投稿を受けた同社は作者ラットを成人の漫画家と勘違いし、25リンギットの原稿料を支払った[26]。1968年、17歳となったラットは『ブリタ・ミング』紙(『ブリタ・ハリアン(英語版)』紙の日曜版)に漫画作品 Keluarga Si Mamat(クルアルガ・シ・ママット、「ママットの家族」)を描き始め、それ以後26年間にわたって週刊連載を続けた[25]。ラットは学生の身でありながら漫画によって当時としては高額の月収100リンギットを得ていた[25]。2年後に5年間の中等教育を終えるが、シニア・ケンブリッジ試験[注 7]の結果が第3等だったため、大学予備課程に進学することはできなかった[27]。高校卒業に相当する学歴で社会に出たラットは、イラストレーターとなることを目指して職を探し始めた[8]。
ラットのキャリアが好転したのは1974年2月10日だった。漫画作品 Bersunat(ベルスナット)が香港の雑誌『アジア・マガジン』に掲載されたのである。ベルスナットはマレーシアのイスラム教徒が必ず受ける割礼式を意味する[3][35][36]。同作は『ニュー・ストレーツ・タイムズ』紙の編集長タン・スリ・リー・シュー・イーの目にとまった[37]。この意味深い儀式をユーモラスかつ精緻に描いた手際に感銘を受けたリーは、作者を自社に迎えるよう口やかましく命じたが、ラットがすでに自社に所属していると告げられて驚いた[15]。ラットはリーに呼び出されて直接面談し、その結果社内での立場が一変した。『ニュー・ストレーツ・タイムズ』副編集長となっていたサマドはラットのためにコラム・カートゥーニストの地位を用意した[38][39]。最初に与えられた職務は、Scenes of Malaysian Life(マレーシアの暮らしの断片)と題した連載で、各民族の結婚式などマレーシアの文化を綴ることであった[40][41]。のちに社命によりロンドンのセント・マーチンズ・スクール・オブ・アートに四か月派遣され[42]、そこで英国の風刺漫画と新聞に出会った。新しく学んだ文化に夢中になったラットは、マレーシアに戻ると Scenes of Malaysian Life を風刺漫画のシリーズに変えてしまった。この変更が好評を得たことで、1975年には創作活動に関して完全な自由を持つフルタイムの漫画家に任じられた[43]。
ラットは着実に優れた風刺漫画を描き続け、マレーシア国民を楽しませた。1978年には二冊の作品集(Lots of Lat および Lat's Lot)が編纂されて一般に発売された。この時点でも Scenes of Malaysian Life の作者として名を成していたラットだが、国民作家の地位に上り国際的な認知を得るに至ったのは、次作の執筆によるものである[25][32]。1979年、子供時代の経験を描いた自伝的漫画作品 Kampung Boy『カンポンボーイ』がブリタ・パブリッシングから刊行された。同書はベストセラーとなり、ラットの言葉によると第1刷(6 - 7万部)は発売から4か月で完売した[6]。「自由なペンタッチによる白黒のスケッチ」と「簡素ながら多くの意味が込められた文章」で描き出された、「心温まる」マレーシアの村落生活は読者を虜にした[44][45]。2009年までに同書のマレー語版は16刷を数え[注 9] 、ポルトガル語、フランス語、日本語などの他言語版が海外数か国で発行された[26][46]。『カンポンボーイ』の成功はラットを「マレーシアでもっとも著名な漫画家」の地位に押し上げた[25]。
『カンポンボーイ』以後
1981年には Town Boy『タウンボーイ』が刊行された。『カンポンボーイ』の続編として、故郷の村落から都市に移り住んだ主人公の思春期を描くものだった。風刺漫画作品集もさらに2冊刊行され(With a Little Bit of Lat および Lots More Lat)、筆名はさらに高まった[47]。1984年、世間の注目から逃れたいという望みもあって『ニュー・ストレーツ・タイムズ』の職を辞し[6][48]、フリーの立場で Scenes of Malaysia Life を描き続けることになった。ラットはカンポンボーイ社を設立して自作の出版やキャラクターの商品化を管理しはじめた[49][50]。2009年、カンポンボーイ社はテーマパーク開設のプロジェクトでサンリオおよびヒット・エンターテインメントと提携した。2012年8月にはジョホール州イスカンダル・プテリにマレーシア初の屋内テーマパークであるプテリ・ハーバー・ファミリーテーマパークが開設され[51]、ハローキティやボブとはたらくブーブーズなどのアトラクションフロアと並んで、テーマレストラン Lat's Place が置かれた[52][53]。内装はマレーシアの村落をモデルにしており、『カンポンボーイ』のアニメーションが流れる中、キャラクターの扮装をしたキャストの給仕で食事を行うことができた[注 10]。
ラットは印刷媒体以外での表現にも挑戦している。1993年には、Unescoが企画した短編アニメーション映画『ミナの笑顔 (Mina Smiles)』の制作に参加した。東南アジアの農村に住む若い母親を主人公として識字教育を啓発する作品だった[55][注 11]。その後、ラットは個人的な懸念に押されて再びアニメーション製作に進出した。1980年代と90年代に放映された西洋のアニメーションが好ましくない文化的影響を及ぼしていると考え、マレーシアの子供に固有の価値観を伝える番組を作ろうとしたのである[59]。その結果、ラットの代表作を原作とするテレビシリーズ『カンポンボーイ』(1997年)が誕生した。同シリーズは全26話が製作され、マレーシア内外で放映されて技術的にも内容的にも好意的な評価を集めた。1999年にはアヌシー国際アニメーション映画祭において最優秀テレビシリーズ賞を受賞した[60][41][61]。とはいえ、『ザ・シンプソンズ』との類似や、マレーシア固有とは言えない英語の使用を指摘する声もあった[62]。ラットが最後にアニメーションに関わったのは2009年のことである。ペトロナス・フィルハーモニック・ホールで行われたアニメーション・ミュージカル公演 Lat's Window to the World において、ラットは『カンポンボーイ』のキャラクターを使った短いシーン3編の制作に参加した。完成したアニメーションはマレーシア・フィルハーモニー管弦楽団の演奏とともに上映された[15]。ラットの絵はカール・デイヴィスの作曲による楽曲と組み合わされ、「純真で牧歌的な時代」のカンポンで過ごした子供時代を見事に捉えていた[63]。
ラットの初期作『ティガ・セカワン』や『ケルアルガ・シ・ママット』の文章はマレー語で書かれていた[16]。しかし後年の作品は多くが英語で書かれた。 Scenes of Malaysian Life は英字紙『ニュー・ストレーツ・タイムズ』でしか発表されていない[76]。ラットが作品で使う英語表現は、マレー語の語彙が取り入れられて構文が単純化されたピジン言語であるマングリッシュ(英語版)を反映している[77]。英語の作品を数作続けて成功させた後、ラットは英語に堪能ではない層を無視してきたことを気に病み始めた。そこで彼は Mat Som (マッ・ソム)を描いた。カンポンの少年が都市に移って作家となり、美しいシティ・ガールに求愛する物語で、マレー語で書かれていた。『マッ・ソム』はヒット作となり、第1刷3万部は3ヶ月で完売した。『ファーイースタン・エコノミック・レビュー(英語版)』誌のジャーナリストSuhaini Aznamは、一切の偏見を交えずに庶民の苦境を風刺的に描けるのがラットの強みだと述べた[78]。
ラットに影響を与えたマレーシア人はルジャブハッドが初めてではなかった。ラジャ・ハムザは活劇と怪奇作品で人気を得た漫画家だが、彼は幼いラットの「ヒーロー」だった[86]。ラットを漫画家の道に向かわせたのは、マレーシア人の冒険家が大活躍するラジャ・ハムザの漫画であった[11]。その望みは『ティガ・セカワン』の刊行で実現した。何度も投稿が却下された末に同作が世に出たことは、憧れの存在と同じく漫画家になれるしるしと感じられた[87]。ラジャ・ハムザはまた、Mat Jambul's Family 、Dol Keropok and Wak Tempeh など家族生活を描いた作品でも成功を収めていた。ラットはこれらの漫画を通じて家族生活や子供らしさを尊ぶようになり、後に自作に活かした[88]。ラットは周囲を子細に観察して作品に取り入れることに関心を持っていた。『ケルアルガ・シ・ママット』や『カンポンボーイ』では、キャラクターの外見や立ち居振る舞いが現実そのままに描かれていた。セリフは現地の方言を交えた自然な文体で書かれていた[41]。それによって読者は物語とキャラクターがまぎれもなく「マレー」のものだと信じることができたのだった[89]。
ラットのペン画作品に感嘆したアメリカの漫画家ラリー・ゴニック(英語版)は、自作 The Cartoon History of the Universe(邦訳『マンガ版 地球の歴史―ビッグバンからアレキサンダー大王まで』心交社、1993年)の一部にペン画を取り入れた。ゴニックは普段使っている筆と同じように描こうとしたが、満足いく結果は得られなかったという[95]。ラットには彩色した作品もあり、水彩とフェルトペンで描かれた Kampong Boy: Yesterday and Today(1993年、「カンポンボーイ: 過去と現在」)はその例である[69]。
マレーシアの政治家階層は次第にラットの戯画化に馴れ、一般の国民と同じように楽しむようになった[101]。ムリヤディはラットの作風を「さりげなく、遠回しで、象徴的」と表現し、倫理的にも美的にもマレーシアのユーモアの伝統を受け継いでいると述べた。伝統にのっとったラットの漫画は国民的な尊敬を集めた[102]。ラットが政治家を批判するとき、対象の地位や人間性からは「ありえない、考えられない、思いがけない」状況に置いてそのコントラストからユーモアを生み出す[103]。マレーシアの第4代総理大臣マハティール・ビン・モハマドは活動期間のほとんどを通じてしばしばラットの漫画に取り上げられてきた。20年にわたってマハティールが積み上げてきた漫画の材料は、146ページの作品集 Dr Who?!(2004年)を生み出した[104]。ラットの機知は、国内の政治家だけでなく、イスラエルの中東政策や、シンガポールの卓越した政治家リー・クアンユーのような外国人にも向けられた[105]。作品の多くが政治的な性格を持っているにもかかわらず、ラットは自身を政治漫画家とみなしておらず[106]、その分野ではもっと優れた作家がいると公言している[107]。
漫画家としての誇りから、ラットは漫画制作を尊敬すべき職業に押し上げようと試みた。1991年には同業の漫画家Zunar、ルジャブハッド、ムリヤディとともに「Pekartun」(Persatuan Kartunis Selangor dan Kuala Lumpur、「セランゴール州・クアラルンプール漫画家協会」)を結成した。Pekartunは展示や公開討論を開催し、一般の漫画に対する意識を高めるとともにメンバー間の親睦を深めた。また著作権などの法的な問題をメンバーに対して明確化し、政府とメンバーとの間の仲介役ともなった[119][120]。その前年、ラットのカンポンボーイ社が企画した Malaysian International Cartoonists Gathering (国際マンガ家大集合)が開催され、国外から多数の漫画家がマレーシアに集まり、作品の展示や交流活動を行った[121][122]。レザの見るところでは、マレーシアの漫画家が同国人から尊敬を得るようになる上でラットの果たした役割は大きい[115]。
国際交流活動に積極的なラットは多数の来日経験を持ち、作品にもそれが活かされている。最初期に描かれた風刺漫画でも、マレーシアから見える日本はたびたび題材にされた。1977年、福田赳夫首相はASEAN諸国との「対等の協力」「心と心の通う友好関係」などを基本とする福田ドクトリンを唱えた[166]。同年に福田が首脳会談のためクアラルンプールに赴いたとき、Visitor from Japan と題した1コマ漫画でラットが描いたのは、居並ぶASEAN首脳が仰ぎ見る中、火のついた札束をマッチ代わりにタバコをくゆらしながらタラップを下りてくる福田の姿であった[167]。この作品は日本の新聞に紹介されてラットの名を知らしめた[168]。クアラルンプール事件(1975年)を起こした日本赤軍なども作品に取り上げられた[169]。第二次世界大戦中の軍政の記憶や、マレー作戦(1941年 - 1942年)に先立って現地社会に侵入していた日本人スパイの伝承を戯画化した作品もある[170][171]。ラットは国際交流基金が主催する第1回アセアン漫画展(1990年)に招待され、「日本 政治家とセックス……」と題する風刺漫画作品を提供した[172]。前年に起きた宇野宗佑首相の女性スキャンダルを受けて、日本の政治家が国会議事堂の周りで芸者を追いかけまわしている戯画であった[173][174]。第4回アジア漫画展(1999年)では、「父の我慢と私の我慢」と題した作品で、マレーシアの村落に侵入した日本兵が擲弾筒の狙いをつけている1942年と、日本人ビジネスマンがゴルフ場でパッティングの狙いをつけている1992年との対比を描いた[175]。
初来日は1981年、外務省の報道関係者招待プログラムによるものであった[168]。このとき見聞した通勤ラッシュややきとり横丁の風景は1コマ漫画となり、作品集 Lots More Lat に収録された[176][177]。後の2002年、福岡アジア文化賞を受賞した際のフォーラムにおいて、漫画家として独立するきっかけとなったのがこの初来日だと発言した。当時朝日新聞に『フジ三太郎』を連載していたサトウサンペイや馬場のぼる、手塚治虫との交流を通じてフリーランスの漫画家という職業形態があることを知り、「マレーシアに戻ったらサトウサンペイのようになろう」と思ったという[178]。サトウとの交友はその後も続いており、1990年にラットがコーディネーターとなって世界各国の漫画家をマレーシアに招いた際、日本からは小野耕世とともにサトウが参加した[179][180]。
1984年には代表作 Kampung Boy が『カンポンのガキ大将』のタイトルで邦訳され[181]、小規模ながらアジア漫画の翻訳としては良好な売れ行きを示した[182]。1992年、ボルネオ島の熱帯雨林伐採を題材とした日本人作家の絵本『森へ帰ろう』(1991年、金の星社)が『カンポンのガキ大将』の盗作だという疑いが持ち上がり、版元の判断で絶版となった。ラットはこの件をよくあることだと述べて問題にしなかった[183][184]。1996年、クアラルンプールのブリタ・パブリッシングから『タウンボーイ』の邦訳版(柳沢玲一郎他訳)が出版され、1998年にはその続編『カンポンボーイ 昨日・今日』(原題 Kampung Boy: Yesterday and Today)が出た[185][159]。2014年には、マレーシア政府観光局のプロジェクトの一環として、左右田直規の監訳による『カンポンボーイ』新訳が東京外国語大学出版会とマレーシア翻訳・書籍センターから共同出版された[186][41]。同書は京都国際マンガミュージアムなどが主催する2014年度ガイマン賞において第2位を占めた[187]。翌年には左右田による新訳『タウンボーイ』が刊行された[188]。
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