ライアン・フランクリン
ライアン・レイ・フランクリン(Ryan Ray Franklin, 1973年3月5日 - )はアメリカ合衆国アーカンソー州フォートスミス出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴1992年にドラフト23巡目でシアトル・マリナーズから指名され、1993年5月21日に契約。 1999年5月15日にメジャーデビュー。同年、リリーフで6試合に登板。 2000年はメジャーでプレイすることはなかったが、シドニーオリンピックに野球アメリカ合衆国代表として出場し、金メダルを獲得した。フランクリンは、4試合に登板し、3勝を記録。 2003年、先発投手として32試合に登板。11勝を挙げたが、リーグワーストの34被本塁打を記録。 2004年も先発投手として32試合に登板したが、6月23日から9月10日にかけて11連敗。リーグワースト2位の16敗でシーズンを終え、2005年はリーグワースト4位の15敗。禁止薬物に陽性反応を示したため、2005年8月2日にMLB機構が、10日間の出場停止処分を発表した[1]。 フェリックス・ヘルナンデスの台頭に伴い、先発投手を1人減らすことになった際、フランクリンかギル・メッシュにするかで検討されたが、結局フランクリンが解雇された[2]。2006年1月13日にフィラデルフィア・フィリーズへFA移籍。2006年8月7日、トレードでシンシナティ・レッズへ移籍。同年、フィリーズとレッズでリリーフとして66試合に登板。シーズン終了後の2007年1月22日、セントルイス・カージナルスへ移籍。 リリーフに転向して以降、GO/AO(ゴロアウトとフライアウトの比率)が1を上回るようになり、ゴロで打ち取ることが多くなった[3]。2007年7月5日、2年契約(3年目の2010年は球団オプション)で契約延長[4]。2008年5月16日、カージナルスのクローザーのジェイソン・イズリングハウゼンの故障者リスト入りに伴い、フランクリンがクローザーを務めることに[5]。同年、チーム最多の17セーブを記録。 2009年はクローザーとして開幕を迎え、開幕から13試合連続無失点を達成。4、6、8月は防御率0.00を記録し、前半戦は防御率0.79、WHIP0.79、22セーブ機会で失敗1の成績を修め、オールスターに初めて選出された。後半戦は防御率3.33、WHIP1.70、セーブ失敗4と調子を落としたが、スライダーに代わりカッターを投じるようになって被本塁打率は例年から激減した。 2010年は7月6日のコロラド・ロッキーズ戦で1/3回で6失点を喫したこともあり防御率は前年より悪化したが、リーグ2位のセーブ成功率93.1%とリーグ9位のWHIP1.03を記録。リリーフ投手中リーグ4位の与四球率1.38と四球を減らし、終盤にはナックルボールを投げるようになった。 2011年は21試合の登板で被本塁打率2.93と被本塁打が多く、防御率8.46、WHIP1.84と低迷。6月29日に解雇された。11月19日、引退を表明した。 選手としての特徴薬物疑惑2005年8月2日にアナボリックステロイドに陽性反応を示し、10日間の出場停止処分を受けた。フランクリン本人によると5月のドーピング検査で陽性反応が出ていたが、その3週間後に再検査を受けたときの結果は陰性だったという。そのため検査に欠陥があるか、誰か他の人の尿が一緒に混ざってしまったと主張している[6]。 2年後の2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書によると、カーク・ラドムスキーは2004年にロン・ビローンからフランクリンを紹介されたと主張している。ビローンは筋力を向上させるために、フランクリンに提供してほしいと言ってきたので、言う通りにデカ・デュラボリンとアナバーを提供した。この主張に関する情報を提供し、応答の機会を与えるためにジョージ・J・ミッチェルが面会を要求したが、フランクリンはこれを拒否した[6]。 詳細情報年度別投手成績
表彰
代表歴脚注
関連項目外部リンク
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