メシャジ・アジズ=ベク=オグルィ・アジズベコフ (ロシア語 : Мешади Азиз-бек оглы Азизбеков . アゼルバイジャン語 : مشهدی عزیزبهیاوو / Məşədi Əziz bəy oğlu Əzizbəyov 〈マシャディ・アジズ=ベイ=オグル・アジズベヨフ〉 、1876年 1月18日 - 1918年 9月20日 )は、アゼルバイジャン人 の革命家 である。ロシア社会民主労働党員 かつヒンメト のリーダーであり、バクー・コミューン では内務副委員などを務めた。しかし、1918年7月にコミューンでの権力を失うとバクー を放棄して逃亡を試み、カスピ海 対岸で反ボリシェヴィキ 勢力に捕らえられ、同志たち(いわゆる「26人のバクー・コミッサール 」)とともに9月20日に処刑された。
生涯
前半生
父、アジズ=ベク
母、サルミナズ
ペテルブルク時代のメシャジ
1876年 1月18日(ユリウス暦 1月6日)、ロシア帝国 バクー県 バクー 、アジア通り107番地(現在のピョートル・モンチン通り105番地に相当する)に生まれた[ 1] 。煉瓦職人であった父は1889年 に流刑先のシベリア で死亡した[ 2] [ 注 1] 。バクーの実科学校を卒業後はサンクトペテルブルク国立技術学院 (ロシア語版 ) へ進み、在学中の1898年 からロシア社会民主労働党 の党員となった[ 4] 。ペトロパヴロフスク監獄 で学生のマリヤ・ヴェトロワ (ru ) が自殺した際には、学生を糾合し抗議運動を行った[ 4] 。ロシア第一革命 の際にも革命運動に参加し[ 4] 、聖イサアク大聖堂 でのデモに参加して逮捕され、クレスティ監獄 (ロシア語版 ) へ収監されたこともある[ 5] 。1905年 にアルメニア・タタール虐殺 (ロシア語版 ) が発生した際には多くのアルメニア人 を救い、翌1906年 にはバクーでムスリムによる自警組織を設立した[ 5] 。同時期には、社会民主主義組織「ヒンメト 」の幹部も務めている[ 4] 。アジズベコフの旧友は回顧録にこう記している[ 6] 。
彼自身やっとの思いで勉学の機会にありついていたにもかかわらず、アジズベコフは自分を差し置いても他人を助けようとした。腹を空かせた友人のために、ほとんど唯一の財産だった銀時計をペテルブルクの質屋に売り払ったこともあった。誠実さと無欲の結晶であるメシャジは、カフカースの学生の中でも特別に尊敬を集めていた。
バクーでの活動
アジズベコフ(左端)とメフメト・エミーン・ラスールザーデ (右端)
1908年 に技術学校を卒業してからはバクーで教師として働いていたが[ 5] 、1910年 には市議会の労働者代表議員に選出された[ 4] 。また、バクーの貧困層を支援するために文化教育団体を組織し、1913年 から翌1914年 にかけてストライキを組織し[ 4] 、第一次世界大戦 時には多くの難民や負傷者を、彼らの国籍を問わず助けた[ 7] 。同時期に作家のジャリル・マンマドグルザーデ (英語版 ) から教育問題への貢献を賞して『モッラー・ナスレッディン (英語版 ) 』紙の創刊号を贈られている[ 8] 。
1917年 からバクー・ソビエトのメンバーとなり、同年9月にはバクー油田 のゼネストを主導[ 4] 。翌1918年 3月に発生したミュサヴァト党 による反乱を鎮圧し、バクー・コミューン が発足するとその県委員および内務副委員に就任した[ 4] 。5月からはバクー郡農民ソビエト執行委員会議長となる[ 4] 。この際に結成された革命防衛委員会[ 注 2] から、アジズベコフは、スラハニ県 (アゼルバイジャン語版 ) から離れ「革命の秩序を回復し、国際的な労働者組織を強化」するよう命じられた[ 10] 。アジズベコフは農民ソビエトの組織と反地主闘争の指揮を行った[ 11] 。アジズベコフの組織的宣伝活動について『バキンスキー・ラボーチー 』紙は次のように書いている[ 12] 。
イスラム教徒の村で農民を組織する特別な手腕を買われ、我らが同志メシャジ・アジズベコフが地方人民委員に近日任命される。彼は数日かけて村々を回り、奴隷化されたイスラム教徒の大衆に、彼らの階級敵に対して
ロシア の
民主主義 勢力と連携して闘うよう、ソビエト政府に代わって訴えた。同志アジズベコフの盛んな活動はすでに大きな成果を生み出している。執行委員会は農村社会でのソビエト権力の影響を認めることを決定した。
その後、バクー・コミューンで左派が権力を失うと、同年7月31日にアジズベコフたちはカスピ海を渡ってアストラハン への逃亡を試みた。しかし8月16日に社会革命党 に捕らえられ、9月20日夜にカスピ海横断鉄道 のペレヴァル駅とアフチャ・クイマ駅の間(クラスノヴォツク からおよそ220キロメートルの地点)で処刑された[ 13] 。
ロシア内戦 後、ソ連政府によって発見されたコミッサールの遺体は一度はバクーに葬られたが、2009年 にアゼルバイジャン 当局によって掘り起こされ、ヒョヴサン (アゼルバイジャン語版 ) へ改葬 された[ 14] 。アジズベコフの親族は彼がスヴェランの母の墓の隣に改葬されることを望んでいたが、当局はそれを無視し、彼らに一切情報を与えなかった。そのためにアジズベコフの墓所の正確な位置は今や特定することが不可能になっている[ 15] 。
評価
アジズベコフについての評価は未だ定まっていない。新アゼルバイジャン党 やミュサヴァト党 、人民戦線 などの民族主義勢力からは否定的に語られる[ 16] 一方で、共産党 (英語版 ) など多くの左翼 勢力からは特筆すべき偉大な人物としてアジズベコフは見なされている。
ソ連崩壊後、三月事件におけるバクー・コミューンの役割の再評価が進むなか、アゼルバイジャン国立科学アカデミー 歴史研究所所長のヤグブ・マフムードフ (ru ) は、アジズベコフがサビラバド県 とビラスヴァル県 (アゼルバイジャン語版 ) で死の部隊を率いて大量殺人を行っていたと発表した[ 17] 。
その一方で、アジズベコフは三月事件の間に「救済委員会」(комитеты спасения ) を組織し、放火や破壊行為から数千の人命を保護したとも指摘されている[ 18] 。さらに、コミューンの都市経済人民委員であったナリマン・ナリマノフ の報告書には、「占領状態のカフカース 」を見たアジズベコフはシャマヒ (アゼルバイジャン語版 ) から戻ると「目に涙を浮かべて、道中で目撃した悲劇について語った」とある[ 19] 。
さらに、メシャジの孫息子はこう述べている[ 20] 。
メシャジはシャマキと
シャマヒ県 (英語版 ) を監督する地方長官だった。そして、実際に彼は
アルメニア人 の軍隊による
反革命 的
虐殺 からシャマヒの人命を救っている。彼は軍の司令官のもとへ赴き、虐殺と反革命行為を停止するよう要求した。しかし司令官がこれに耳を貸さなかったため、メシャジはナリマノフに電話で連絡し、ナリマノフは
レーニン に電報を打った。そしてレーニンはすぐさま虐殺への停止命令を下した。
当時のバクーでアジズベコフと協同していたアナスタス・ミコヤン の評によると、アジズベコフは「短気な性分」で、「もっともよい意味に解釈できる革命的狂信とすら言えるような影さえ宿した、革命的情熱の持ち主」だったという[ 21] 。
遺産
ソ連政府はアジズベコフたちを英雄として顕彰し、多くの地名や施設にアジズベコフの名が付けられた[ 22] [ 23] [ 24] [ 25] [ 26] 。メフディ・フセイン (en ) は1942年 に彼を主人公とした小説「コミッサール」«Комиссар» を執筆し、ルスラン・シャフマリエフ (az ) は1975年 に「バクー・コミッサール メシャジ・アジズベコフ」(az ) という短編ドキュメンタリー を制作した。
1976年 にはトカイ・マメドフ (ru ) が制作したアジズベコフの彫像がバクーに建てられた。この作品によってマメドフは1978年 にソビエト連邦国家賞 を受賞した[ 27] が、2009年 4月に彫像は撤去された[ 28] 。アジズベコフの記念碑はアルメニア の首都エレヴァン にも存在したが、トラックの衝突によって損壊したために撤去された。それは公式には事故として処理されたが、アルメニア人のアゼルバイジャン人 に対する民族感情に基く意図的な行為ではなかったかと疑われている[ 29] 。
親族
メシャジの妻は富豪のザルバリエフの娘で[ 20] 、息子の1人は1903年 4月14日に需品監督部門の少将となっている[ 30] 。孫娘のピュスタハニム (az ) は歴史家でアゼルバイジャン国立科学アカデミーの会員であり、アゼルバイジャン歴史博物館 (アゼルバイジャン語版 ) の館長であった[ 31] 。従兄弟の曾孫は1994年 にナゴルノ・カラバフ戦争 で戦死した[ 32] 。
脚注
注釈
出典
^ Казиев М. А. (1976). Мешади Азизбеков: жизнь и деятельность . Б. : Гянджлик. p. 5.
^ Каренин А. А. (1976). Мешади Азизбеков, пламенный борец за власть советов: речи, документы и материалы . Б. : Азербайджанское гос. изд-во. p. 6.
^ ミコヤン (1973) 248頁
^ a b c d e f g h i I Азизбе́ков / И. И. Санина // А — Ангоб. — М . : Советская энциклопедия, 1969. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 1).
^ a b c “Азизбеков, Мешади-Бек ”. Большая биографическая энциклопедия. 2009. 2016年4月5日 閲覧。
^ Казиев М. А. (1983). Ученики и соратники В.И. Ленина — Борцы за Советскую власть в Азербайджане . Б. : Азернешр. pp. 131–132.
^ Мешади Азизбеков, пламенный борец за власть советов: речи, документы и материалы by Alexey Karenin, Azerneshr, 1976.
^ Əzizbəyov və Caparidzenin heykəlləri əvvəlki yerinə qaytarılmayacaq
^ 中島偉晴 『閃光のアルメニア - ナゴルノ・カラバフはどこへ』J.P.P. 神保出版会、1990年、341頁。ISBN 978-4915757037 。
^ А.А. Каренин (1976). Мешади Азизбеков, пламенный борец за власть советов: речи, документы и материалы . Азербайджанское гос. изд-во. pp. 19–20.
^ ミコヤン (1973) 147頁
^ История Азербайджана . Vol. 3, часть 1. Баку: Изд-во АН Азербайджанской ССР. 1963. p. 122.
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^ Мурсал Алиев . “Продолжается демонтаж мемориала 26 Бакинских комиссаров в Баку ”. 1news.az. 2011年7月6日時点のオリジナル よりアーカイブ。2009年1月17日 閲覧。
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^ Criticism on Meshadi Azizbekov's political views by Maharram Zulfuqarli - SalamInfo
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参考文献