ミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチ
ミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチ(Milivoje Novakovič、1979年5月18日 - )は、スロベニア・リュブリャナ出身の元サッカー選手。元スロベニア代表。ポジションはフォワード。 経歴ユース・オーストリア・ブルガリアユース時代は母国のNKオリンピア・リュブリャナの下部組織に在籍し、2002年にASKフォイツベルクに移籍した。2005-06シーズンに在籍したブルガリアのリテックス・ロヴェチでは16得点で得点王のタイトルを獲得し、同シーズンにはUEFAカップでベスト32に入った。ドイツの1.FCケルン、イスラエルのベイタル・エルサレムFC、ブルガリアチャンピオンのレフスキ・ソフィアが彼に興味を示し、2006年夏、2. ブンデスリーガ(2部)に降格したばかりのケルンに150万ユーロの移籍金で移籍した。 ケルン移籍1年目の2006-07シーズンこそ10得点だったものの、2007-08シーズンにはパトリック・ヘルメスとのコンビで37得点を量産。自身は20得点を挙げて2. ブンデスリーガの得点王に輝いた。このシーズン、ケルンはボルシアMG、ホッフェンハイムに次ぐ3位となり、3シーズンぶりの1部昇格を果たした。2008年9月12日、クリストフ・ダウム監督はノヴァコヴィッチを主将に指名した。2008-09シーズンは16得点を決めてチームを引っ張った。 2010 FIFAワールドカップ予選ではスロバキア戦やポーランド戦など計4試合で5得点し、スロベニアのグループ2位とプレーオフ進出に貢献した。プレーオフのロシア戦では2戦ともにトップ下で先発出場し、アウェーゴール差での本大会進出を決めた。 2010/11シーズンのブンデスリーガでは、マリオ・ゴメス、パピス・シセに次ぐリーグ3位となる17得点を挙げた[1]。 2012年2月13日、クラブでの活動に専念する為にスロベニア代表からの引退を発表したが、後に復帰[2]。 2011/12シーズンは故障もあり5得点に終わる。チームは最終節を残して16位と入れ替え戦圏内だったがバイエルン・ミュンヘンとのホームゲームを1-4で落とし、逆にこの日ホッフェンハイムに3-1で勝利したヘルタ・ベルリンに抜かれて17位に転落してしまい3季ぶりの降格が決定。なおこの試合でケルン唯一の得点を決めたのがノヴァコヴィッチだった。チームの降格を受けて8月1日、大宮アルディージャへ期限付き移籍[3]。 大宮第22節のFC東京戦でJ1初ゴール。第26節の北海道コンサドーレ札幌戦ではクラブJ1史上初となるハットトリックを達成。同じく夏に途中加入したズラタン・リュビヤンキッチとともにチームのJ1残留に大きく貢献した。 翌2013年は開幕からチームを牽引して21戦無敗記録の樹立に貢献。チームと共に後半戦やや調子を崩すも最終的に12得点を挙げる活躍を見せた。 またこの年スロベニア代表の監督スレチコ・カタネッツからラブコールを受けて2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選で代表復帰。3月22日のアイスランド戦で代表復帰後初となる先制ゴールを挙げた。10月11日のノルウェー戦ではハットトリックを達成。6試合の出場で5得点の活躍を見せるもチームは3位に終わり2大会連続のワールドカップ出場はならなかった。 清水2013年シーズン終了後にケルンから大宮への期限付き移籍期間が満了となり、2014年シーズンよりケルンから清水エスパルスへの完全移籍が決定する[4]。チームは残留争いに巻き込まれる苦しいシーズンとなったが、リーグ戦全試合で先発出場しチーム最多の13得点を挙げて年間15位でのJ1残留に貢献。カップ戦も含めて年間19得点とチームの大黒柱としての活躍をみせた。 名古屋2015年1月16日、名古屋グランパスへ完全移籍することが発表された[5]。「ゴール前のスペシャリスト」を欲した西野朗監督の強い要望を受けての移籍だったが、スタメンでの起用が少なく1年での退団が決まった。 4年を過ごした日本について、「夢のような場所で妻も戻りたがっているほど」、「アジアで最も落ち着いた環境でプレーできるのはJリーグ、上位と下位が拮抗している」、「欧州とは人々のメンタリティにかなり違いがある。1部残留争いをしていようとも、人々はプライベートでは放っといてくれる、礼儀正しく接する。プレッシャーは実質的に皆無だ」との感想を述べている[6]。 マリボル2016年2月18日、NKマリボルに完全移籍することが発表された[7]。 2017年6月10日に行われるワールドカップ欧州予選・マルタ戦を最後に現役を引退する事を発表し[8]、そのマルタ戦に途中出場から得点も挙げた[9]。 個人成績クラブ
代表歴出場大会試合数
得点
タイトル
人物
脚注
外部リンク
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