ミノル・ウエキ
ミノル・フランシスコ・ゼイヴィエル・ウエキ(パラオ語: Minoru Francisco Xavier Ueki、日本名:植木 実[1]〈うえき みのる〉、1931年 - 2021年7月26日)は、パラオの医師、実業家、政治家。Ueki Belau Development Incorporated 代表取締役。 サクラ会会長、ベラウ国立病院院長、元老院議員、厚生大臣、日本駐箚パラオ特命全権大使などを歴任した。 来歴生い立ち大日本帝国の委任統治領である南洋群島にて生まれた。父は愛知県出身の日本人であり、母はパラオ人であった。父は南洋群島で木材業を営んでいたが40代で病死し、その後は母により育てられた。父親が日本人であるため、日本人子弟向けの小学校や中学校に通った。しかし、学校では日本人の級友らから「おい、トーミン」(「トーミン」は「島民」の意味)などと呼ばれ、地元のパラオ人集落に帰れば「日本人」と呼ばれたため、苦しむことになった。太平洋戦争の際には、中学生だったため勤労奉仕に従事し、飛行場の建設などを手伝っていた[2]。敗戦後、日本人は内地に強制送還されることが決定し、日本人の長男であるとの理由から内地に送還されることになった。パラオ人の母や、嫡子でない姉や弟は現地に残されたため、はなればなれとなった。2年後、再びパラオ諸島に戻った。パラオ諸島をはじめとする南洋群島は、アメリカ合衆国の信託統治領である太平洋諸島となっていた。アメリカ合衆国の本土に渡り、医学を学んだ。 医師・実業家としてその後、パラオ諸島に戻り医師として活動するとともに、観光会社の経営にも携わった[3]。ベラウ国立病院(Belau National Hosipital)では院長を務めた。ウエキベラウ開発(Ueki Belau Development)では代表取締役を務めた[4]。自身が日系パラオ人であることから[5]、日系人団体である「サクラ会」を設立した[6]。日本からの戦没者慰霊団の受け入れにも、力を尽くした[3][6]。 政治家としてパラオが独立を果たすと、政治家として活動した。元老院(パラオの「元老院」はいわゆる上院に該当)の議員として、国政に参画した[3]。さらに、厚生大臣として入閣した[3]。その後、日本駐箚パラオ特命全権大使として日本に赴任することになった。2009年6月10日の信任状捧呈式にて、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)の野田聖子の侍立の下で、明仁天皇に信任状を捧呈した[7]。2013年、日本駐箚パラオ特命全権大使を退任した。退任に際しては、日本に駐箚するオセアニア各国の大使らにより、送別会が催されている[8]。後任の大使には、教育者のフランシス・マツタロウが起用されることになった[9][10]。 2015年、明仁天皇と美智子皇后がパラオを訪れ戦没者を追悼した際には、「失った肉親を思う心は私たちも同じ。亡くなった人たちのために両陛下が来てくれることがうれしい」[6]と述べ、歓迎の意を表した。 2018年秋の叙勲で旭日重光章を受章。 政策・主張
人物大日本帝国の委任統治領で生まれたことから、日本語に極めて堪能である[3]。日本の龍谷大学を訪れた際には、講演を全て日本語でこなしている[3]。パラオ人の母親に女手一つで育てられたが、幼いころから箸の持ち方や礼儀作法などを教え込まれるなど、日本人として育てられたという。さらに、母親は子供たちにパラオ語を話さないようにと躾けており、自らも家庭では日本語しか話さないようにするなど、徹底したものだったという。 脚注
関連項目外部リンク |
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