ミシェル・ド・ブルボン=パルム
ミシェル・ド・ブルボン=パルム(Michel de Bourbon-Parme, 1926年3月4日 - 2018年7月7日)は、フランスのレーシングドライバー、実業家。イタリアの旧諸侯パルマ公爵家の子孫。 人物最後のパルマ公ロベルト1世の九男ルネと、その妻のデンマーク王女マルグレーテの間の第3子、次男として生まれた。全名はミシェル・マリー・グザヴィエ・ワルドマル・ジョール・ロベール・カール・エマール(Michel Marie Xavier Waldemar Georg Robert Karl Eymar de Bourbon-Parme)である。父がLPガス製造事業を営んでいたパリで生まれ育つが、一家は1940年にドイツのフランス侵攻を逃れてニューヨークに亡命し、経済的に苦しい生活を強いられた[1]。ミシェルはモントリオールのイエズス会神学校で教育を受けた[2]。 17歳の時、父の許しを得てアメリカ合衆国陸軍に入隊し、陸軍少尉に任官。ジェドバラ作戦に参加してナチ占領下のフランスに潜入し、破壊工作に従事した[3]。1944年のフランス解放後、ベトミンの独立蜂起軍と戦うべく仏領インドシナへのフランス軍派遣部隊に所属した。1945年8月28日に戦地へのパラシュート降下を行うが、同日中にベトミン軍の捕虜となり、11か月間の過酷な捕虜生活を送った。フランス兵捕虜の大半が処刑された中、フランス軍に返還された数少ない捕虜の1人となった。 帰国後はレーシングドライバーに転身し、1964年[4]および1966年のル・マン24時間レースに参加した(いずれも途中棄権)。1964年のツール・ド・フランス・オートモービルでは2位となった。1967年にモナコグランプリに参加した際にはロレンツォ・バンディーニのクラッシュ事故に間近で遭遇、1人のコースマーシャルとともにバンディーニを炎上するマシンの中から救出したが、バンディーニは大火傷のため死亡した。 ゾディアックボートの製造会社に勤務した後、イラン皇帝モハンマド・レザーとフランス企業の間のビジネス契約の交渉役となった。ヌイイ=シュル=セーヌとフロリダのパームビーチの2つの自宅を行き来する生活を送っていた。オーストリア皇后ツィタの甥、ルーマニア王ミハイ1世の義弟[5]、イタリア王ウンベルト2世の女婿、イゴール・ボグダノフの義父であり、旧王族・貴族・保守派の社交界では重要な立場にあった。 2018年7月7日、パリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌにて死去。92歳没[6]。 子女1951年5月23日にブロイ=ルヴェル公女ヨランド(1928年 - 2014年)と最初の結婚をした[5]。夫妻は間に5人の子女をもうけた後、1966年に別居、1999年に離婚した。
また最初の妻と別居中、内縁関係にあったロール・ラ・ブルジョワとの間に娘を1人もうけている[5]。
また1982年、長女イネスの遺児を養女として迎えている[5]。
2003年5月16日(または17日)、イタリア王女マリーア・ピアと再婚した。彼女との間に子供は無い。 著作
レース戦績ル・マン24時間レース
脚注出典
注釈 |
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