マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前232年の執政官)
マルクス・アエミリウス・レピドゥス(ラテン語: Marcus Aemilius Lepidus、- 紀元前216年)は紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政務官。紀元前232年と紀元前221年に執政官(コンスル)を務めた。 出自パトリキ(貴族)であるアエミリウス氏族の出身。古代の歴史家によるとアエミリウス氏族はローマで最も古い氏族の一つとされている[2]。ローマのトリブス(選挙区)の一つには、アエミリウスの名がつけられている[3]。アエミリウス氏族の祖先は、ピタゴラス[2]または第二代ローマ王ヌマ・ポンピリウス[4]とされている。またプルタルコスが引用している一説ではアイネイアースとラウィーニアの間の娘がアエミリアで、初代ローマ王ロームルスを生んだとしている(通説ではレア・シルウィアが母)[5][6]。プルタルコスは、この氏族の人物の特徴として「優れた道徳心を持ち、また絶えることなく改善されていた」と述べている[2]。 アエミリウス氏族のうち、レピドゥスのコグノーメン(第三名、家族名)を持つもので最初に執政官となったのは、紀元前285年のマルクス・アエミリウス・レピドゥスである[7]。カピトリヌスのファスティによれば、紀元前232年の執政官レピドゥスの父も祖父も、プラエノーメン(第一名、個人名)はマルクスである[8]。おそらく、紀元前285年の執政官はレピドゥスの父である[9]。 レピドゥスには、マルクス、ルキウス、クィントゥスの3人の息子がいた[10]。マルクスは法務官(プラエトル)に二度または三度就任したが、紀元前216年の執政官選挙には敗れている[11]。他の二人は、レピドゥスの葬儀の際に名前が出てくるのみである[12][13]。マルクスの息子は紀元前187年と紀元前175年の執政官で、元老院筆頭を務めたマルクス・アエミリウス・レピドゥスである。 経歴現存する資料にレピドゥスが最初に登場するのは、紀元前232年の執政官就任時である。同僚のプレブス(平民)執政官はマルクス・プブリキウス・マッレオルスであった。両執政官はサルディニアでの軍事作戦を実施した。サルディニアは第一次ポエニ戦争の後にローマが占領していたが、そこの住民が反乱を起こしていた[14]。レピドゥスとマッレオルスは勝利し多くの戦利品を得た。続いてコルシカに向かい、軍事作戦は成功したものの、戦利品を全て盗まれてしまった[15]。ポリュビオスは、ガリアから半世紀前に獲得したピケヌム周辺(en、現リミニ南方)の土地を、同年に護民官ガイウス・フラミニウスが戦争で土地を失った人々に分配したとしている[16]。 後年レピドゥスは補充執政官に就任している。しかし、カピトリヌスのファスティが欠落しており、紀元前221年、紀元前220年または紀元前219年の何れかであるが不明である[14]。歴史学者のロバート・ブロートンは、紀元前221年と推定している[17]。レピドゥスは紀元前216年末に死去したが、そのときには終身職である鳥占官(アウグル)を務めていた[18]。彼の息子達が彼を弔う競技会を開催し、フォルム・ロマヌムでは22組の剣闘士が戦った[10]。 脚注
参考資料古代の資料研究書
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