マルクス・プブリキウス・マッレオルス
マルクス・プブリキウス・マッレオルス(ラテン語: Marcus Publicius Malleolus)は紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政務官。紀元前232年に執政官(コンスル)を務めた。 出自プレプス(平民)であるプブリキウス氏族の出身。父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウスである。共和政時代においては、氏族としてはマッレオルスが唯一の執政官である(帝政時代にはガイウス・クィンクティウス・ケルトゥス・プブリキウス・マルケッルス(en)が西暦120年に補充執政官となっている)。 経歴初期の経歴マッレオルスと兄弟のルキウスは、おそらく紀元前241年に按察官(アエディリス)に就任した[1]。両者はフローラ神殿を建立し、フロリア祭を開催した。また、土地分配法に違反した人々から徴収した罰金を使って、フォルム・ボアリウムからアウェンティヌスの丘の頂上に通じる道路である「クリウス・プブリキウス」を建設した[2]。 マルクス・テレンティウス・ウァロとオウィディウスは彼らの肩書きを平民按察官(プレブス・アエディリス)であったとするが[3][4][5]、フェストゥス(en)は上級按察官(アエディリス・クルリス)であったとしている[6]。 執政官マッレオルスは紀元前232年に執政官に就任。第一次ポエニ戦争と第二次ポエニ戦争の間であり、同僚執政官はマルクス・アエミリウス・レピドゥスであった[7]。この年、ローマはセネノス族に勝利した後に獲得したガリア・キサルピナのピケヌム周辺 (en、現リミニ南方)の土地に植民を行った[8]。ポリュビオスは、これを護民官ガイウス・フラミニウスが制定したフラミニウス法に基づき、農民に土地を分配したとする[9]。しかしキケロは、これを4年後の紀元前228年のことで、執政官スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガの業績としている[10]。 前年の執政官マニウス・ポンポニウス・マトがサルディニアを占領していたが、そこの住民は反乱を継続していた。両執政官はサルディニアに出征し、多くの戦利品を得た。その後コルシカに転戦したが、そこでコルシカ人に戦利品を奪われてしまった[11][12]。 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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