ポール・スプリットオフ
ポール・ウィリアム・スプリットオフ・ジュニア(Paul William Splittorff Jr.、1946年10月8日 - 2011年5月25日[1])は、メジャーリーグ昇格から引退までカンザスシティ・ロイヤルズに在籍したアメリカ合衆国・インディアナ州エバンズビル出身の投手。身長191cm(6フィート3インチ)、左投左打。 生い立ちインディアナ州エバンズビルで生まれ、主にイリノイ州アーリントンハイツで育った[1]。デルタ・シグマ・ファイ・フラタニティのメンバーだったアイオワ州スーシティのモーニングサイド・カレッジ在学中、1968年メジャーリーグドラフト会議の25周目でロイヤルズに指名された。ロイヤルズがメジャーリーグ球団となる前年の1968年にコーニング・ロイヤルズで登板し、ロイヤルズという球団組織の歴史上初めてピッチングした投手という栄誉に浴している。1970年9月にメジャー昇格を果たす前の3シーズン、ロイヤルズのファームであげた通算成績は28勝27敗、防御率4.01。メジャーデビューはシカゴ・ホワイトソックス戦で、7イニングを投げて自責点となる3失点を喫し敗戦投手となった[2]。 メジャー昇格後1971年のシーズンはAAA級のオマハ・ロイヤルズでのスタートとなったが、開幕8試合で5勝2敗・防御率1.48の成績をあげると、再びメジャーからお呼びが掛かる。そのシーズンは最後までカンザスシティに留まり、8勝9敗・防御率2.68の成績を残した。 その後はカンザスシティのローテーションに定着し、1973年には20勝11敗・防御率3.98と現役生活で唯一となる20勝をあげた。1973年4月10日、カウフマン・スタジアム(当時はロイヤルズ・スタジアムと呼ばれていた)で開幕投手を務め、テキサス・レンジャーズに12対1と快勝した。チームはスプリットオフのメジャー昇格後5シーズン中3シーズン迄もがオークランド・アスレチックスの後塵を拝し2位に甘んじていたが、1976年にはアメリカンリーグ西地区チャンピオンに浮上した。 カンザスシティは1976年から1978年まで3年連続でアメリカンリーグのリーグチャンピオンシップシリーズでニューヨーク・ヤンキースと対戦し、3回とも苦杯を嘗める結果に終った。スプリットオフはこの間ヤンキース相手に5回登板し、2勝0敗・防御率2.84という成績を残した。次の1979年は両チームともプレーオフ進出を逃し、翌1980年、ロイヤルズとヤンキースは再びアメリカンリーグ・チャンピオンシップシリーズでポストシーズンの覇を競う事となった。ロイヤルズはシリーズを3勝0敗で圧勝した。スプリットオフはシリーズ制覇を決定付ける第3試合に先発し、チームは勝利を収めたが彼自身は勝利投手の権利は得られなかった[3]。続くワールドシリーズでは、ロイヤルズはフィラデルフィア・フィリーズに2勝4敗で破れた。スプリットオフは最後の6戦目のみに3番手として登板し勝敗はつかなかった[4]。 常にスティーブ・バスビー、デニス・レナード、ラリー・グラといったチームメイトたちの陰に隠れ、オールスターゲームとも無縁であったが、堅実で選手生命の長かったスプリットオフは彼らより多くの勝利を積み重ね、ロイヤルズでの15年間で通算166勝を挙げた。 ロイヤルズが多くの実力ある若いピッチャーを抱えるようになった中、衰えの隠せなくなったスプリットオフは引退する。最後の登板は1984年6月26日であった。 現役引退後引退後はロイヤルズ専属のテレビスポーツ解説者となった。1987年、ロイヤルズ殿堂入り[5]。またビッグ・エイト・カンファレンス及びビッグ12カレッジバスケットボールのテレビ放映の解説者を務めた。 2011年5月16日、スプリットオフの口腔癌及び悪性黒色腫との闘病が明らかにされた[6]。その9日後の5月25日の朝、ミズーリ州ブルースプリングスの自宅で息を引き取った。64歳であった[7]。 詳細情報年度別投手成績
脚注
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