ポティトゥス・ウァレリウス・メッサッラ
ポティトゥス・ウァレリウス・メッサッラまたはマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ポティトゥス(ラテン語: Potitus Valerius Messala, Marcus Valerius Messalla Potitus、紀元前76年ごろ - 没年不明)は紀元前1世紀後期・1世紀前期の共和政ローマ・帝政ローマの政治家。紀元前29年に補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。 出自メッサッラは、ローマで最も著名なパトリキ(貴族)であるウァレリウス氏族の出身である。ウァレリウス氏族の祖先はサビニ族であり、王政ローマをロームルスとティトゥス・タティウスが共同統治した際に、ローマへ移住したとされる[1]。その子孫に共和政ローマの設立者の一人で、最初の執政官であるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラがいる。その後ウァレリウス氏族は継続的に執政官を輩出してきた。 ポティトゥスは古くはウァレリウス氏族のコグノーメン(第三名、家族名)であったが、サムニウム戦争の頃に一旦消滅した。しかし後にプラエノーメン(第一名、個人名)として復活した。消滅した一族の名前をプラエノーメンに使うことは、当時よく行われていた[2]。 ポティトゥスの父は紀元前53年の執政官マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフスと思われる。 経歴ポティトゥスはその政治歴の初期において、アシア属州でクァエストル(財務官)を務めたと思われる[3][4]。紀元前32年にはプラエトル・ウルバヌス(首都担当法務官)となり[5]、翌年には神事遂行十五人委員会(quindecimviri sacris faciundis)の一人に選ばれた[6]。 紀元前29年には離職した正規執政官セクストゥス・アップレイウスの後を受けて、補充執政官に就任する[7]。カッシウス・ディオによれば、オクタウィアヌスがエジプトから戻ったことを理由に、ポティトゥスは元老院と市民の名のもとに、自ら牛を生贄にしたが、これは執政官としては最初のことであった[8]。 紀元前25年から紀元前23年までの2年間、ポティトゥスはプロコンスル(前執政官)権限で、アシア属州の総督を務めた[9]。マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが東方属州の総督に就任すると、ポティトゥスはレガトゥス(総督代理)として紀元前19年から紀元前18年まで、シリア属州を支配した[10]。 子孫ポティトゥスには、おそらく2人の子供がいたと思われる。マニウス・ウァレリウス・メッサッラ・ポティトゥスと、西暦5年に執政官を務めたルキウス・ウァレリウス・メッサッラ・ウォレススである。 脚注参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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