ボン・ヘイズ
ボン・フランシス・ヘイズ(Von Francis Hayes, 1958年8月31日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンホアキン郡ストックトン出身の元プロ野球選手、監督。右投左打。 経歴セントメリーズ大学カリフォルニア校在学時の1979年に第8回日米大学野球選手権に出場している。日本が開幕3連勝で王手をかけた第4戦、ヘイズが延長11回裏にサヨナラ本塁打で連敗を食い止めた。その後、アメリカは波に乗って逆転で4連勝し、ヘイズは同選手権のMVPに輝いた[1]。前後するが、この年の6月のMLBドラフト7巡目(全体163位)でクリーブランド・インディアンスから指名され、プロ入り。 1981年4月14日のテキサス・レンジャーズ戦でメジャーデビュー。 1982年にレギュラーに定着し、150試合に出場して打率.250ながら14本塁打、82打点、32盗塁を記録した。そのオフにフリオ・フランコ、ジョージ・ブコビッチ、ジェイ・バラーら5選手とのトレードで、フィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。 1984年には打率.292、16本塁打、そして自己最多の48盗塁を記録。 1986年には6月11日のニューヨーク・メッツ戦で初回先頭打者本塁打を打ち、さらにこの回、満塁で回ってきた2度目の打席でも本塁打を打つ。1イニング2本塁打は多数記録されているが、それが初回だったのはメジャー史上初となった。打率.305、19本塁打、98打点を記録し、その年本塁打・打点の二冠王を獲得してMVPを獲得したマイク・シュミットの前を打つ三番打者として大活躍。打率と打点は自己最多で、得点107、二塁打46、長打67はいずれもナ・リーグ1位であった。同年秋にはウェイド・ボッグスの出場辞退(夫人の出産に立ち会うため)によって、日米野球のメジャーリーグオールスターに追加選出され、来日。打席のバッテリー間方向いっぱいに足を広げるかのような独特のスタンスから、最多タイの4本塁打を放ち、日本のファンにも印象付けた。 1989年4月には月間MVPを獲得し、その年キャリア唯一のオールスター出場を果たす。その年のシーズン途中にメッツがレニー・ダイクストラの交換相手として興味を持っているとも報じられたが、結果的にメッツがフィリーズから獲得したのはフアン・サミュエルであった。 1992年にルーベン・アマロ・ジュニア、カイル・アボットとのトレードで、カリフォルニア・エンゼルスに移籍し、その年限りで現役引退。引退後はマイナーリーグでコーチを務め、のち監督も務める。 2004年、2005年には2年連続で所属するリーグの最優秀監督に選ばれた。 2009年は独立リーグのランカスター・バーンストーマーズ、その後も独立リーグやメキシカンリーグのプエブラ・パロッツで監督を務めた。 人物自身が打席に入る時の曲に、ジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ(Purple Haze)」を使っていた。理由は「Haze」の発音もスペルも自身のファミリーネームに近いからである。 詳細情報年度別打撃成績
表彰
記録
背番号
代表歴
脚注
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia