ホールファグレ朝
ホールファグレ朝(ノルウェー語: Hårfagreætta)は、ノルウェー国王ハーラル1世ホールファグレ(金髪ないし美髪王)によって創始されたノルウェーの王朝である。この王朝は、かつては、ノルウェーを統一し9世紀後半から1387年の間にかけて幾つかの中断を挟みつつ同国を支配したとみなされていたが、現在は、多くの学者たちが10世紀後半ハーラル2世灰衣王の代(初代から数えて3代目)で断絶したと考えている。 本来の王朝:伝統的な解釈と人造的な作成の対立ホールファグレ朝は、伝統的には統一ノルウェー王国における最初の王朝と見做されている。この王朝は、872年にハフルスフィヨルドの戦いで最後に抵抗する諸王を破り、Haraldr hinn hárfagri (ハーラル金髪王ないし美髪王)として知られている初代ノルウェー国王 ( "ノルウェーにて"対立する者として) ハーラル1世によって創始された。 伝統的な解釈によると、ハーラル1世没後、その最初の統一ノルウェー王国は彼の男系子孫によって継承された。このことは13世紀に成文化された。他のスカンディナヴィアの君主国やアングロ=サクソン朝イングランドとは異なり、ノルウェーは選挙的な君主制ではなかった。 しかしながら、ハーラル1世没後の最初の100年間は、王国は事実上、王ではなくノルウェー北部から来たラーデのヤール(侯) (古ノルド語: Hlaðir)の1人に支配されていた時代が幾つか存在した。最初の時代は、ハーコン・シグルザルソン (Hákon Sigurðarson 'ヤルル・ハーコン'とよく呼ばれている)統治下の975年頃から995年頃までである。 また、ハーラル1世の王国が統一ノルウェーの中核であったにも係わらず、それは未だに小さく、権力の中心は南部のヴェストフォルであった。その上、ハーラル1世が死ぬとその息子達の間で王国は分割された。 何人かの歴史家は、君主による支配権は事実上、ノルウェー全土に及んでいたことを強調して、1015年から統治を行ったオーラヴ2世 (オーラヴ強王、後に聖オーラヴとなる)が最初にノルウェー全土を支配した王であると断言する。オーラヴ2世は概して強制的にノルウェーを最終的にキリスト教に改宗させて後にRex Perpetuum Norvegiæ (ラテン語: 永遠なるノルウェー王)として崇拝された[2][3]。幾つかの地区は、ハーラル3世 (ハーラル苛烈王、在位:1046年 – 1066年)以前は、ホールファグレ朝の支配下には事実上おかれてはいなかった 。それ故に、これらのいずれもがノルウェーの更なる統一と見做されうる。加えて、ハーコン・シグルザルソンを含む何人かの君主は名目上、もしくは事実上、デンマーク国王の封臣であった。 マグヌス4世 (マグヌス盲目王、在位:1130年– 1135年及び1137年– 1139年)までの後代の国王がハーラル3世の子孫( ' シュル朝')であることには異存がない。しかしながら、現代、多くの学者はハーラル3世が本当にハーラル1世の子孫であったこのか (例えば、ハルフダンはシグル・シュルの父と同一人物なのか[4]、あるいはハーラル1世がスノーフリードと呼ばれたサーミ人の少女との間に シグル・リースをもうけたのかという問題[5])、そしてハーラル3世自身が実際にそのような主張をしたのか、この家系は 12世紀に創作されたのではないかと疑っている。スヴェレ・シグルツソンのシグル2世 の息子であるという主張もまた大概、偽造であると見做されており、インゲ2世 (Inge Bårdsson)が王朝最後の国王ということになる。 現在、学者達は、ホールファグレ王朝は少なくとも部分的には中世における改竄上の産物であると見做している[6][7]。 その動機の一つに、支配者達に王国の創始者に遡る明確な王家の祖先を与えることによってその正当性を高めることが考えうる。その他の動機には、王家に血筋を繋げることによって、その他の人々に由緒正しい血筋を供給することがあった。王家の末裔の異伝はアイスランドのスカルド及び歴史家による幾つかの作品に伝わっており、その内の幾つかは現在失われたフヴィンのシヨドルヴによる『ユングリンガ・タル 』、セームンドル・シグフースソンの失われた作品の内容が伝わる『 ノルウェー王の一覧 』、及びスノッリ・ストゥルルソンによる最長編のサガで今では失われたアリ・ソルギルスソンの『 アイスランド人の書 』の内容を伝える『ヘイムスクリングラ 』 に依拠している。これらの相違は幾つかの点で考慮が入れられる。en:Joan Turville-Petreは上記の伝承を精査して 、その本来の目的を即位紀元の年代の枠組みを確立させてアイスランドの首長に結び付けることにあり[8]、そして王朝のヴェストフォル起源は巧みに改変されてアイスランドの伝承に合わせる形でシールディング一族よりもスウェーデン人のユングリング家に結び付けられたと論じた[9]。 Claus Kragは重要な動機としてオスロ周辺地域である ヴィーキンに対する世襲の請求権の確立にあると論じた。何故ならば同地域はデンマーク国王に税金を払ってきたからである[10]。 Turville-Petreは「ハーラル3世の祖先の決定的な再編は恐らくその200年後にアイスランド人によって行われた」と述べる。即ち、ハルフダン黒王を王朝の始祖とし、ハーラル1世からオーラヴ1世・トリグヴァソン、オーラヴ2世そしてハーラル3世に至る3つの王家の分家をこじつけたとする[11]。 ハーラル3世の父親が正真正銘のハーラル1世の多少不明瞭なところがある年少息子の男系子孫なのか[12] 、そしてその他謎の多いオーラヴ2世とは本当に男系で繋がりはあるのかという疑念は特に歴史学者の間で取り上げられてきた。オーラヴ2世とハーラル3世の王位請求は系譜の改竄によって高められたと主張されている。何故ならば両人はオースタ・グッドブランドスダッタールを同じ母親とするものの、伝統的なゲルマン人の法の観点からすると母親の子孫であることは重要な意味をなさないからである。 今日の批判的な観点からすると、930年から1030年の間にかけて、ホールファグレ朝による王の統治は僅かに3世代40年間続いた。恐らくは12世紀の改変によってホールファグレ朝に繋げたであろうオーラヴ1世とオーラヴ2世の一族は18年間統治し、それに続いてハーラル3世が新王朝を創始した。ホールファグレ朝を称する王朝には概して、ハーラル1世、オーラヴ1世、オーラヴ2世、ハーラル3世、マグヌス5世、スヴェレ以下の6つの王朝が含まれている[13]。 王朝の人物とその末裔たち後に聖人に列せられたオーラヴ2世を継承したハーラル3世もまた聖オーラヴ朝の一員として見做されている。 問題点ホールファグレ朝と呼ばれる中世の王統に関する問題点(要は系図上では断絶があるのではないかということ)は以下の通りである[13]。
いずれも❝出自不明❞であり、特に、王冠を勝ち取った最後の3人は隠された王の私生児であると主張していた。オーラヴ1世はハーラル1世の男系子孫、即ちその息子を名乗るヴィーカのオーラヴの孫であると主張したことが歴史的に知られている。同じくオーラヴ2世もまたハーラル1世の男系子孫、即ちその息子を名乗るヴェストフォルのビョルンの玄孫を主張したことが知られている。それとは反対の資料ではノルウェーのヴィーカとヴェストフォルはハーラル1世の領域ではなくデンマークに従属していたと主張する。これら2つの主張の信憑性は、アイスランドの報告、特にヘイムスクリンガラ並びにそれらを編纂した資料が信頼に足りるか次第である。 ハーラル3世がオーラヴ2世の唯一の肉親かつ異父弟であるとの言及は歴史的に裏付けが取られており、その父親もまた同じくハーラル1世の子孫を名乗ったことが言及されている(ハーラル1世の子孫であることは幾つかの疑問の余地があるが)。ハーラル3世の子孫による王宮の後援のもとでサガが著されるようになる遥か後代の伝説では、ハーラル3世の父親もまたハーラル1世の息子を名乗るシグル・リースを介してその子孫であると主張している。歴史的資料からするとハーラル3世がハーラル1世の子孫であるという主張は、同時代に良く知られていたオーラヴ1世並びにオーラヴ2世による主張(これは同時代に広く知られており、僅か1世紀で作られたものでも、あるいはハーラル3世の場合よりも遅くは作られたのではなかった)よりも遥か後代が最初である。 このようにしてハーラル3世はホールファグレ朝の推定上の分枝である「シュル朝」を開いた。同王朝はハーラル3世の異父兄であるオーラヴ聖王に敬意を込めて「聖オーラヴ朝」として知られるようになった。 ハーラル4世は、祖国アイルランドからノルウェーに来て、自身をマグヌス3世がその治世後期に同国へ遠征を行った際に儲けた私生児であると主張した。その主張は、ハーラル4世が若い頃にアイルランド人の母親並びに周囲の親族が語った言い伝えに基づく歴史的資料から見受けられる。 このようにして、ハーラル4世は、自称古の王朝の推定上の分枝である「ギーレないしグーレ(アイルランド)朝」を創始した。 王の自称息子で最も疑わしく、現代の多くの学者[要出典] によって実際のところは僭称者と見做されているのが祖国フェロー諸島からノルウェーに来て同国の内戦中に後継者不在で困難な状況に陥った「白樺の脚」の主導権を握ってシグル2世の私生児(生母であるグンヒルドの証言による)を主張したスヴェレ・シグルツソンである。スヴェレはその母親がコンブマーカーのウナスという別の男性と結婚している時に生まれた。大人になった時に初めて王の落胤を主張した、即ち伝説によると母親がスヴェレに“本当の伴侶”を語ったとのことである。歴史上の資料ではその話に信頼に足りうるものはどこにも見受けられない。内戦中、闘争はあまりにも苛烈さを増したことから系図上の正当性は親族の概念を高めるに至った。多くの王位請求者たちはシグル2世の息子であると主張し、その殆どが政治的な地位にあるものであり、主張は最も疑わしい。王位請求者はシグル2世とその一派の意義のある政策を続けていくのが望ましく、そのことは彼の”息子”であることに意義があるというのが実情であろう。 このようにしてスヴェレは、自称古の王朝の推定上の分枝である「スヴェレ(フェロー)朝」を創始した。スヴェレ家は非ノルウェーのコンテクストでも言及されている。例えば同家の王女マルグレーテはスコットランドの王冠を継承した。 ホーコン4世は、ホーコン3世の没後にノルウェー人貴族の女性から産まれた。彼女と後の王の身内は、ホーコン4世の母親はホーコン3世の愛人であり、それで出来た子であると公言した。以上述べたホールファグレ朝に関する4つの問題点の中で、一見見たところ、最後の記述が最も信憑性が高い。 このようにして、新王朝とは考えられないホーコン4世は一般的には「スヴェレ(フェロー)朝」の継続と見做されている。ただし、スヴェレ朝自体がホールファグレ朝の分家としては不明瞭な位置付けにある。 歴代君主一覧本来のホールファグレ朝:
ヴィーガ系:
ヴェストフォルド系、聖オーラヴ朝の開始:
シュル朝:
ギーレ朝:
フィリップス・シモンソンとスクル・バルドソンをホールファグレ朝の系統に安易に位置付けることは出来ない。両人のホールファグレ朝の初期王との関係はその異兄弟であった。 スヴェレ朝:
スヴェレ朝庶流:
末裔たちホールファグレ朝に関する中世の報告の信憑性の疑わしさは当然のことながら、上記の王たちは"自称王子"と比較してその他良く知られた子孫を残したのかという疑問に導かれる。以下に挙げるのは、裏付けの取れるホールファグレ朝の”分家”の王の系統である。
系図
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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