シグル1世 (ノルウェー王)
シグル1世・マグヌソン(シグル十字軍王、シグルド1世とも。古ノルド語:Sigurðr Jórsalafari、ノルウェー語:Sigurd Jorsalfare、1089年[1]ー1130年3月26日)は、12世紀のノルウェー王である。シグル1世は異母兄弟のエイステイン・マグヌソン(1123年死没)と共同で王国を治め、彼らの治世は中世ノルウェー王国の黄金期とされている。シグルの渾名十字軍王は、1107年から1110年にかけて彼が執り行った十字軍遠征による名であり、この十字軍遠征は一国の国王が個人的に行った初の遠征であった[2][3]。 若年期シグルは先代のノルウェー王マグヌス3世の3人の息子の1人であった。シグルの兄弟構成は、異母兄のエイステイン・マグヌソン、異母弟のオーラヴ・マグヌソンとなっており、3人とも非嫡出子であった。彼らは兄弟同士の争いや内戦を防ぐため、父の死後、王国を3人で共同統治した。しかし1115年にオーラヴが亡くなり、1123年にはエイステインが亡くなったため、それ以降はシグルが唯一のノルウェー王として統治を続けた[4]。 シグルはノルウェー王に即位する以前に、島嶼部の王並びにオークニー伯という爵位を有していたが、エイステインやオーラヴはこのような爵位を有していなかった。オークニー伯位はシグルの後、ホーコン・ポールソンが継承した[5]。 多くの歴史家たちは、シグルの治世を中世ノルウェー王国の黄金期であるとみなしており、経済的・文化的に繁栄していたがためにシグル王が数年にわたる十字軍遠征を敢行し、名声を得ることができたのであろうと考えている。[要出典] マグヌス3世との遠征1098年、シグルは父王マグヌス3世のオークニー諸島・ヘブリディーズ諸島・アイリッシュ海遠征に従軍した。オークニーへの軍事遠征の末、マグヌス3世は当時のオークニー伯ポール・トルフィンソン、アーランド・トルフィンソン兄弟を迅速に撃破し退位させた後に、その後継者として自身の息子シグルを即位させた。そしておそらく、同年中にマグヌス王は同様にして島嶼部の王にもシグルを任命したとされる。マグヌス王は先代の島嶼部の王の死に直接関与していなかったとされており、マグヌス王は武力侵攻をもってして王位を獲得したと考えられている。1098年、軍事遠征が終わるとマグヌス王はノルウェーに帰還したが、シグルがこの時父王と共にノルウェーに帰還したかどうかは定かではない。しかし、1102年に父王が再び軍事遠征を開始しオークニーに現れた際、シグルもオークニーに居たことは明らかとなっている。この時、マグヌス3世はアイルランドの有力者en:Muircheartach Ua Briainとの婚姻関係を基盤とした同盟を締結した。彼はアイルランドで最も勢力のある領主の1人であったことから自身をアイルランド上王であると宣言しており、またダブリン王としてダブリンも統治していた。アイルランド上王との同盟締結に際し、シグルは上王の娘Bjaðmunjoと結婚した。ただし、彼らは結婚初夜を迎えなかった。 1103年、マグヌス3世はアルスター地方でアイルランド軍の襲撃に遭遇し、戦死した。当時14歳であったシグルは残されたノルウェー軍を率いてアイルランドを発ち、アイルランド上王の娘との結婚を放棄してノルウェーに帰還した。ノルウェーへの帰還に先立ち、シグルと彼の兄弟エイステイン・オーラヴは共同王としてノルウェー王に即位し、しばらくの間は3人がノルウェー王国を分治するという取り決めを行った。父王の軍事遠征は結果的にはある程度成功を収め、ノルウェー王国の支配下となった数多くの島々からの富の獲得が可能になった上に、労働力まで賄うことが可能となった。しかし、マグヌス3世の死後、ヘブリディーズ諸島とマン島はノルウェー王国の支配下から脱し、再び独立した[6]。 ノルウェー十字軍→詳細は「ノルウェー十字軍」を参照
1107年、シグル王は建国されたばかりの十字軍国家:エルサレム王国を支援するために、十字軍遠征を開始した。この十字軍遠征は、一国の主たる国王が直々に執り行った初の十字軍遠征であり、その功を称えシグル王には十字軍王(Jorsalafari)の渾名が付されることとなった。サガによれば、シグル王は60隻の船と5000人の戦士を率いたとされる。遠征に際し、シグル王とエイステイン王のどちらが国に残り、どちらが遠征をおこなうか討論が行われたとされ、結局、シグル王が遠征軍を率いることとなった。エイステイン王と比べ、シグル王は父王のアイルランド・スコットランド方面への軍事遠征にたびたび従軍していたことから遠征経験が豊富であったためではないかと考えられている。 遠征途中、シグル軍はリスボンや地中海の多くの島々、そしてパレスチナ地域で戦闘を繰り広げた。シグル王自身も、しばしば自身の軍団や近親者に混ざって戦い、それらの戦いは連戦連勝であった。度重なる勝利によって莫大な富や戦利品を獲得したが、その多くはノルウェーに持ち帰られることはなかった。得た財産の多くは帰還途中に立ち寄ったコンスタンティノープルで東ローマ帝国に引き渡されたからである。聖地エルサレム(Jorsala)に向かう途中、シグル王はシチリア王国のパレルモに立ち寄り、ノルマン人のシチリア王ルッジェーロ2世と面会した[7]。 聖地に到着したシグル王はエルサレム王ボードゥアン1世と面会した。シグル王はボードゥアン王に温かく迎え入れられ、多くの時間を彼と過ごした。両王はヨルダン川まで騎行したが、その地でシグル王は洗礼を受けたのかもしれない。シグル王はボードゥアン王からの要請を受けて、1098年にファーティマ朝によって要塞化された沿岸都市シドンに対する包囲戦に参加。ヴェネチア共和国のドージェ:オルデラッフォ・ファリエルと共に、十字軍・ノルウェー連合軍はシドンを包囲した。この包囲戦は大成功に終わり、1110年12月5日にシドンは十字軍に対して降伏した。征服後、シドンはフラマン人十字軍貴族のウスタシュ1世・グルニエに封土として与えられた。シグルはその後、ボードゥアン王とラテン・エルサレム総大司教en:Ghibbelin of Arlesの命により聖十字架から切り取られた破片を友情の印・聖地遠征への参加に対する記念として授けられた。シグルはそののち、自身の艦隊の元に戻り、故郷への帰還を開始した。聖地を出航したシグル軍は一時的にキプロス島に滞在したのち、コンスタンティノープルに入城した。シグルはコンスタンティノープルの黄金の門から入城し、自軍の先頭にたって帝都に入った。シグル王はこの地でしばらくの時を過ごし、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスと面会するなどした。 ノルウェーヘの帰還コンスタンティノープルを出立する際、シグル王は自身の艦隊の全ての船と遠征中に手に入れた多くの財宝をアレクシオス帝に譲渡した。その代わり、シグルとその親戚は皇帝から屈強な軍馬を譲り受けた。シグル王は陸路での帰還を計画していたが、彼の軍団の多くはヴァラング親衛隊として東ローマ帝国に残り、皇帝の親衛隊としての人生を歩んだ。シグルは聖地遠征に3年の時を費やし、道中に多くの国に立ち寄った。帝都出立後、シグルはセルビア・ブルガリア・ハンガリー・パンノニア・シャヴァーヴァン・バイエルンを経由して進み、バイエルンでは神聖ローマ皇帝ロタール3世と面会した。そのあと、シグルはデンマークに立ち寄りデンマーク王ニルスと面会した。そして最終的に彼から軍船を得て、ノルウェーまで海路で帰還した。 1111年、シグルがノルウェーに帰還した頃には、ノルウェー王国には黄金期が訪れていた。シグル王の留守中王国を統治していたエイステイン王は堅実で強固な統治体制を整え、教会勢力は富と権力、そして名声を手に入れていた。シグル王の治世において、ノルウェー王国では十分の一税が導入され、これにより王国において教会勢力は劇的に強固なものとなった。またシグル王はスタバンゲルに新たに司教座を設けた。ベルゲン大司教に離婚を認めてもらえなかったシグル王はより南方のスタンバンゲルに新たな司教座を設置して、その地に据え置いた新たな司教に自身の離婚を承認させた[注釈 1]。 また、帰国後のシグル王は現在のスウェーデン・クングエルヴ近辺の街:Konghelleに新たな首都を設置し、周辺に強固な砦を建築した。そしてエルサレムでボードゥアン王から譲渡された聖十字架の破片もこの首都に安置した。1123年には、シグル王は教会の名において再び軍事遠征をおこなった。今回の遠征先はスウェーデンのスモーランド地方に居住する住民であった。彼らはかつてキリスト教に改宗したものの、再び古来のノース信仰に立ち戻っていたためである[8]。 死諸王のサガであるモルキンスキンナによれば、シグル王は亡くなる前に精神的に追いやられていたという[9]。そして1130年、彼は亡くなった。遺骸はオスロの聖ハルワルド大聖堂に埋葬された[要出典]。シグルはキエフ大公ムスチスラフ1世の娘でスウェーデン王インゲ1世の孫娘であったマリムフリダ・ムスチスラヴナと結婚し、彼女との間に一人娘のクリスティン・シグルスダッテルをもうけた。 しかしシグル王には嫡出子がいなかった。そのため、豪農の娘で彼の愛人であったボルグヒルド(en:Borghild Olavsdotter)との間の非嫡出子マグヌス4世がシグル王の跡を継いでノルウェー王位を継承した。しかしマグヌス4世は単独で王位に就いたわけではなく、正当な王位継承者を自称するハーラル・ギッレなる人物と共同統治という形で王位についていた。そしてこの共同統治体制はシグル王の死後、ノルウェー王国での凄惨な内戦を引き起こす所以となった[10][11][12][13]。 一次資料シグル王と彼の兄弟たちに関する情報の多くは、1225年頃にスノッリ・ストゥルルソンが編纂したサガ:ヘイムスクリングラに依拠している[14]。しかし歴史家たちは今もこの作品の正確性に関して議論を続けている。なお、シグル王に関してはノルウェーのみならずほかの多くのヨーロッパ諸国の文献でも言及されている。 演劇・詩19世紀、ノルウェーの作家ビョルンスティエルネ・ビョルンソンはシグル王の生涯を描いた歴史演劇を製作している。またこの劇に付した劇音楽:「十字軍の王シーグル」はノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグが制作した。また1862年には、スコットランドの詩人ウィリアム・フォーサイスはエドワード・バーン=ジョーンズ製作の挿絵が盛り込まれた十字軍王シグルという詩作品を発表している[15]。 脚注注釈
出典
その他の文献
関連書籍
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