ホースト・ホフマン
ホースト・ホフマン(Horst Hoffman、1935年9月29日[1] - )は、ドイツ出身の元プロレスラー(出生地はチェコスロバキア[1]。生年は諸説あり、1942年ともされる[3])。 現役選手時代はヨーロッパを代表する正統派の本格テクニシャンとして活躍した[3]。日本には国際プロレスや全日本プロレスに来日し、アメリカではAWAのリングに出場したことがある[2][3]。 来歴体育教師を経て、西ドイツ(当時)のプロモーターのグスタル・カイザーにスカウトされ1957年にプロレスラーとしてデビュー[1]。1960年代はハノーバー、ブレーメン、パリなど欧州各地のトーナメントに参加して優勝し、ヨーロッパ遠征から帰国した豊登に「ロビンソンより強い男がいる」などと言わしめた[3]。1971年7月には、そのビル・ロビンソンのアメリカ進出で空位になっていたヨーロピアン・ヘビー級王座をトーナメントに勝ち抜いて獲得、1974年2月にアルバート・ウォールに敗れるまで保持した[4]。 1972年3月、国際プロレスの第4回IWAワールド・シリーズに初来日。ドン・レオ・ジョナサン、ジョージ・ゴーディエンコ、バロン・フォン・ラシク、そして当時モンスター・ロシモフと名乗っていたアンドレ・ザ・ジャイアントなどの強豪が集結した同シリーズにおいて、地味ながら本格派のテクニックを披露してファンや関係者を唸らせた[3]。再来日となる1973年3月7日には四日市にてストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦[5]。国際には1974年6月にも来日している[6]。 この間、国際プロレスのブッキングでアメリカのAWAにも進出。1973年の短期参戦時はベビーフェイスのポジションだったが、1974年の再遠征からはドイツ系アメリカ人のバロン・フォン・ラシクと共闘してヒールに転向。因縁のビル・ロビンソンをはじめ、ジェフ・ポーツ、クリス・テイラー、クラッシャー・リソワスキー、レッド・バスチェン、ケン・パテラ、イワン・プトスキーらと対戦した[7]。同年には、バーン・ガニアが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦している[8]。 1975年にはスーパースター・ビリー・グラハム&ダスティ・ローデスのチームと抗争[9]。グラハムは前年末にラシク&ホフマンと仲間割れしてベビーフェイスに転向しており、助っ人にローデスをフロリダから呼び寄せるというアングルが組まれた。ロシア人ギミックのボリス・ブレジニコフを交えた反米ユニットとして、グラハム&ローデスにアンドレ・ザ・ジャイアントが加わった豪華トリオとの6人タッグマッチも行われている[10]。 1975年よりAWAの提携先が国際プロレスから全日本プロレスに移行したことを機に、同年12月に開催された全日本のオープン選手権にヨーロッパ・ヘビー級王者として来日。公式戦ではドリー・ファンク・ジュニア、パット・オコーナー、ミスター・レスリング、ディック・マードック、ザ・デストロイヤー、ヒロ・マツダ、ジャンボ鶴田と対戦し、最終戦の川崎大会ではジャイアント馬場の優勝戦の相手を務めた(敗退したものの、馬場をサイド・スープレックスで投げている)[11]。なかでもドリーとの対戦は、米欧の実力者による本格派の対決として名勝負といわれた[12]。 以降、日本での主戦場を全日本プロレスに移して、1976年5月の来日時にはアントン・ヘーシンクと再三対戦[13]。1977年6月の来日時には大宮にてハーリー・レイスと組み、鶴田&デビュー直後の天龍源一郎(後の鶴龍コンビ)と対戦している[14]。同年12月には世界オープンタッグ選手権にビル・ロビンソンとの欧州代表コンビで参加[15]。実力者同士のタッグチームとして注目され、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークとの公式戦ではラフファイトの強さも見せたが、チームワークに難があり戦績は芳しくなかった[16]。このオープンタッグへの参戦が最後の来日となっている。 現役時代から副業としてドイツでディスコやアパートメントを経営し、アメリカのテキサスにも果樹園を所有していたというが[17]、引退後の消息は不明[12]。 追記
得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク
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