ベラスキタ・ラミレス
ベラスキタ・ラミレス(スペイン語:Velasquita Ramírez, 963年ごろ - 1035年ごろ)は、レオン王ベルムード2世の最初の妃。レオン王ラミロ3世の王子オルドーニョ・ラミレスと結婚したクリスティーナの母。 生涯ベラスキタの出自ははっきりしない。デバにある教会の石碑には、ベラスキタのことを単に「filia Ranimiri(ラミロの娘)」として記されている[1][2]。18世紀のスペインの歴史家マヌエル・リスコは、ベラスキタはレオン王ラミロ2世の娘であると考えていたが[3]、ベラスキタは中世の特許状において当時の慣習に従い「filia Ranimiri regis(ラミロ王の娘)」として記されることはなかった[4]。現代の歴史家はこの親子関係を否定しており、ヘルメネギルド・ゴンザレス伯爵とムニアドナ・ディアスの息子であるラミロ・メネンデスと、グティエ・メネンデス伯爵の娘であるその妻アドシンダ・グティエレスの間に生まれたのではないかと考えている[5]。これは、ベルムード2世がヘルメネギルド伯爵の父であるゴンサロ・ベトテスを彼の(曾)祖父としている999年1月5日付の文書と一致する[6][注釈 1]。 ベラスキタは980年から、ベルムード2世が即位する1年前に2人が初めて一緒に寄進状において確認される981年10月11日の間に結婚した[7][8]。このガリシア王国の伯爵メネンド・メネンデスがサン・フリアン・デ・サモス修道院に寄進したことを記す寄進状において、ベルムード2世は「Veremudus, prolix Ordonius rex」、ベレスキタは「uxor ipsius(彼の妻)」としてそれぞれ記されている[4]。 夫妻は988年末に最後に一緒に確認され、恐らく翌989年に離婚したとみられる[9]。991年に、ベルムード2世と2番目の妃エルビラ・ガルシアが特許状において初めて一緒に確認される[9]。ベレスキタは宮廷を去って娘クリスティーナとともにオビエドに移り、サン・ペラーヨ修道院において修道女となった[10]。当時この修道院の修道院長はレオン王サンチョ1世の未亡人テレサ・アンスレスであった。中世研究家マルガリータ・トレスは、ベラスキタとテレサがともにベラスキタの娘クリスティーナとテレサの孫オルドーニョ・ラミレスとの結婚を計画し、推し進めたと考えている[11]。ベラスキタは996年3月14日に夫であったベルムード2世と王妃エルビラ・ガルシアがサン・ペラーヨ修道院に寄進した時の文書で確認される[12]。1024年、すでに未亡人であった娘クリスティーナが最終的に引退するコルネラーナのサン・サルバドル修道院を創建した時の特許状において、ベラスキタの存在が確認される[13]。 ベラスキタの正確な没年は不明であるが、1028年から1035年の間に死去したとみられ[7]、アストゥリアスのサン・サルバドル・デ・デバ修道院に埋葬されたといわれている[14]。ベラスキタは1006年以前にこの修道院を創建し、創建の年の8月29日に、サンタ・クルス修道院、サン・フアン・デ・アボニオ修道院およびサン・マルティン・デ・サラス教会などとともにオビエド大聖堂に寄進した[13]。 結婚と子女ベラスキタの子として、以下の1女が知られている。 ベラスキタは、アルフォンソ・オルドーニェス、アルドンサ(またはイルドンシア)・オルドーニェス(1056年以降没)、オルドーニョ・オルドーニェス(カスティーリャ・レオン王フェルナンド1世の側近)および「ドーニャ・パリャ」として知られるペラーヤ・オルドーニェスの祖母である。 注釈
脚注
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia