ヘッセン=ルンペンハイム家
ヘッセン=ルンペンハイム家(ドイツ語: Haus Hessen-Rumpenheim)は、ドイツの旧諸侯ヘッセン家諸家の中で、19世紀にヘッセン選帝侯となったヘッセン=カッセル方伯家から出た分家。現在も続いている2系統のうちの1つである。オッフェンバッハのルンペンハイム宮殿を本拠とした。 歴史方伯フリードリヒ2世の末息子フリードリヒを始祖とする。1803年、フリードリヒが兄のヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世より方伯位を受けたことにより創始された。 1875年に亡命先のプラハで客死した選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世にはゲルトルーデ・レーマンとの貴賤結婚で儲けた子しかいなかった。この子供たちはヘッセン家の家内法に照らし合わせて家族世襲財産を相続する権利を認められなかったため、ルンペンハイム方伯家の当主だったフリードリヒ・ヴィルヘルム(2世)が選帝侯家の相続人となった。 このため、ヘッセン=ルンペンハイム家は1875年よりヘッセン家諸家の嫡系であるヘッセン=カッセル家家長の座を継いだことになり、ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム家(ドイツ語: Haus Hessen-Kassel-Rumpenheim)と呼ばれるようになった。もっとも、ヘッセン選帝侯国は1866年の普墺戦争の結果、プロイセン王国に併合されていたため、この継承は政治権力の移行を伴わない名目上のことに過ぎなかった。 フリードリヒ・ヴィルヘルム(2世)の末息子フリードリヒ・カールは、第一次世界大戦中の1918年にドイツ帝国の占領地域に建国されたフィンランド王国の国王に推戴され、「カールレ1世(フィンランド語: Kaarle I)」を名乗った。カールレ1世は「王太子」に指名した四男ヴォルフガングとともにフィンランドに赴いたが、この王国はドイツの敗戦とともに消滅した。 1997年、かつてヘッセン・ウント・バイ・ライン大公国を統治していたヘッセン=ダルムシュタット家最後の当主の未亡人であるマーガレット・フォン・ヘッセンが世を去ると[1]、ヘッセン=ルンペンハイム家がダルムシュタット家の家督をも引き継いだ。これにより、400年以上にわたってカッセル家とダルムシュタット家に分かれていた両ヘッセン家の家督が統合されることになった。 歴代家長
系図
脚注
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