アドルファス (ケンブリッジ公)
ケンブリッジ公爵アドルファス王子(Prince Adolphus, Duke of Cambridge KG GCB GCMG GCH PC、1774年2月24日 – 1850年7月8日)は、イギリスの王族。ケンブリッジ公。 生涯イギリス王ジョージ3世と王妃シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの七男として、1774年2月24日にバッキンガム宮殿で誕生した[1][2]。キューで教育を受けた後、1786年にドイツのゲッティンゲン大学に進学した[1]。同年6月2日、ガーター勲章を授与された[1]。 1793年に大佐としてハノーファー軍に入隊、1798年に中将に昇進した[1]。1803年にイギリス陸軍に転じ[1]、新設のキングズ・ジャーマン軍団(en:King's German Legion)の司令官となった。1808年4月に(1803年9月に昇進した扱いとして)陸軍大将に昇進、1813年11月には陸軍元帥に進む[1]。1805年から1850年に死去するまでコールドストリームガーズ隊長を務めた[1]。 1801年11月27日、父王によってケンブリッジ公爵、アイルランドにおけるティペラリー伯爵、ノース・ブリテンにおけるカロデン男爵の称号を授けられた[1][2]。いずれも連合王国貴族の爵位だったが、『完全貴族名鑑』によれば、アイルランド貴族とスコットランド貴族風を出すために「アイルランドにおける」「ノース・ブリテンにおける」(ノース・ブリテンはスコットランドを指す)といった土地指定がなされた[1]。1802年2月3日に枢密顧問官に任命され、1811年から1814年までセント・アンドルーズ大学総長を務めた[1]。 1815年1月2日にバス勲章ナイト・グランド・クロスを、同年8月12日にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを、1825年6月20日に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授与され、同時に聖マイケル・聖ジョージ騎士団グランド・マスターに就任した[1]。ほかにもプロイセン王国から黒鷲勲章を授与され、1844年にロシア帝国から聖アンドレイ勲章を授与された[1]。 1817年、兄の摂政王太子ジョージ(のちのジョージ4世)の一人娘シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズが産褥で急死した。当時、ジョージ4世以外の6人の兄弟たちは全員独身であった。王位継承者を作るため、ある者は長年の愛人との関係を断ち、配偶者選びを始めて競うように結婚した。そんな中、末弟のアドルファスは、1818年5月7日にヘッセン=カッセル家のオーガスタ(アウグステ・フォン・ヘッセン=カッセル)と結婚した。 選帝侯領から王国に昇格したハノーファーでは1816年11月から1837年6月まで副王を務めた[1]。政治ではトーリー党穏健派に属し、『完全貴族名鑑』はケンブリッジ公爵がハノーファーを「賢明に統治した」(he governed Hanover judiciously as Viceroy)と評した[1]。1837年、姪ヴィクトリア女王が即位すると、123年ぶりにイギリスはハノーファーとの同君連合を解消した(ハノーファー王国は女子の継承権を認めないため)。アドルファスの兄アーネストがハノーファー王となったことから、彼は家族を連れて帰国した。 1847年から1850年に死去するまで大英博物館理事を務めた[1]。 1850年7月8日、アドルファスはピカデリーのケンブリッジ・ハウスで死去し[1]、ウィンザー城内のセント・ジョージズ礼拝堂へ埋葬された[2]。 家族1818年5月7日、アウグステ・フォン・ヘッセン=カッセル(1797年7月25日 – 1889年4月6日、ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯フリードリヒの娘)と結婚した[1]。
脚注
参考文献
関連図書
外部リンク
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