この項目では、ギリシア神話の女神について説明しています。
ヘカテー (古代ギリシャ語 : Ἑκάτη , Hekátē )は、ギリシア神話 の女神 である。ヘカテイア とも呼ばれる。日本 では長音 を省略してヘカテ とも表記される[ 2] 。
「ヘカテー」は、古代ギリシア語で太陽神アポローン の別名であるヘカトス(Ἑκατός , Hekatós 「遠くにまで力の及ぶ者」、または「遠くへ矢を射る者」。陽光の比喩)の女性形であるとも、古代ギリシア語で「意思」を意味するとも(ヘーシオドス の用法より)言われている[ 3] 。また、エジプト神話 の多産・復活の女神ヘケト に由来するとも言われている[ 4] [ 5] 。
「死の女神」、「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれた[ 6] [ 7] 。「ソーテイラー (救世主)」の称号でも呼ばれる[ 8] [ 9] 。また、江戸時代 日本 の文献では「ヘカッテ」と表記された[ 10] 。
古代ローマ においてはトリウィア (Trivia 、「十字路の」の意)という形容語を付けて呼ばれた[ 11] 。
トリカブト や犬 、狼 、牝馬 、蛇 (不死の象徴)[ 12] 、松明 (月光の象徴)[ 12] 、ナイフ (助産術の象徴)[ 12] 、窪みのある自然石 [ 13] 等がヘカテーの象徴とされる。
古代ギリシア以前
元はアナトリア半島 のカーリア や[ 2] 、トラーキア で信仰された女神で、それらを通じてギリシアに入ってきたと考えられている[ 14] 。
古代ギリシア
3面3体の姿をしたヘカテーの像(キアラモンティ美術館 所蔵)
ペルセース とアステリアー の娘で(そのため、「ペルセースの娘」を意味する「ペルセーイス」とも呼ばれる[ 15] )ティーターン 神族の血族に属する(他にもコイオス とポイベー 、ゼウス やデーメーテール の娘という説もある)。狩り と月 の女神アルテミス の従姉妹。月と魔術 、豊穣、幻や幽霊[ 16] 、夜と暗闇[ 17] 、浄めと贖罪[ 7] 、出産[ 12] を司るとされる。冥府神の一柱であり、その地位はハーデース 、ペルセポネー に次ぐと言われる[ 18] 。
ヘーシオドスの『神統記 』[ 注釈 1] では、ゼウスによって海洋 、地上 、天界 で自由に活動できる権能を与えられているとされ、人間 にあらゆる分野での成功を与え[ 15] 、神々に祈る際には先にヘカテーに祈りを捧げておけば御利益が増すとまで書かれており、絶賛されている。これはヘーシオドスの故郷であるボイオーティア において、ヘカテーの信仰が盛んであったためと考えられている[ 2] 。そして、ヘカテーはホメーロス の著作には一切登場しない[ 2] 。
同じ地母神 にして冥府神でもあるペルセポネーやデーメーテールとの関係からか、ハーデースによるペルセポネー誘拐の話に登場し、デーメーテールにハーデースがペルセポネーを連れ去ったことを伝えている(ここでは同じくペルセポネーの行方を尋ねられた太陽神ヘーリオス と対になっており、ヘカテーの月の女神としての性格が強調されているとも言える[ 14] )。また、ヘーラクレース 誕生の際にトカゲ (またはイタチ )に変えられてしまったガランティス を憐れみ、自分の召使の聖獣としている[ 21] 。さらにギガントマキアー にも参加しており、ギガース の1人クリュティオス を松明 で倒している[ 注釈 2] 。アルゴナウタイ (アルゴナウテースたち)の物語では、コルキス (現在のジョージア 西部)の守護神とされ、王女メーデイア にあつく信奉されており、メーデイアとイアーソーン はヘカテーを呼び出してその助力により魔術を行っている。『変身物語 』ではキルケー がピークス の従者達を動物に変えた際に、ヘカテーに祈願して魔術を行っている[ 22] 。ヘーシオドスの『名婦列伝 』では、イーピゲネイア が生贄として殺されようとした際にアルテミスに救い出されて神となり、ヘカテーと同一になったとされている[ 23] [ 24] 。
後代には、3つの体を持ち、松明を持って地獄の犬を連れており、夜の十字路や三叉路に現れると考えられるようになった[ 15] [ 7] 。十字路や三叉路のような交差点は神々や精霊が訪れる特殊な場所だと考えられ、古代人は交差点で集会を開き神々を傍聴人とした[ 25] 。中世においても交差点のそばに犯罪者や自殺者を埋葬している[ 25] 。また、この3つの体を持つ姿はヘカテーの力が天上、地上、地下の三世界に及ぶことや、新月、半月、満月(または上弦、満月、下弦)という月の三相、または処女 、婦人 、老婆 という女性 の三相や、過去 、現在 、未来 という時の三相を表している。新月や闇夜の側面はヘカテーが代表することが多かった[ 26] 。また、月と関連づけられたヘカテーの三相一体の具現形態は、天界では「月神」のセレーネー 、地上では「女狩人」のアルテミス、冥界では「破壊者」のペルセポネーだった[ 27] 。また、貞節なディアーナ であると同時に、冥界の地獄の側面を表象するヘカテーであるという二元性を表すとも考えられた[ 28] 。カール・ケレーニイ はヘカテーの三形態は、母神デーメーテール、少女神コレー・ペルセポネー、冥界の月神ヘカテーを意味し、少女神を囲む二柱の母神を表すものであると述べている[ 29] 。古典後期になると亡霊の女王としてあらゆる魑魅魍魎 を操る、恐ろしい物凄い形相の女神と考えられた[ 30] 。
三つ辻に道の三方向を向いた3面3体の像が立てられ、毎月末に卵、黒い仔犬、黒い牝の仔羊、幼女、魚、玉葱、蜂蜜といった供物が供えられ、貧民の食とする習慣があった[ 15] [ 31] [ 25] (通常神への生贄とする動物は肌が白いものが良いとされたが、ハーデース等の冥界神へは黒い動物が捧げられた[ 32] )。また、供物として家の戸口に鶏の心臓と蜂蜜入りの菓子を供える習慣もあった。さらにヘルメース と同じく道祖神 のように道に祀られたヘカテーの像は、旅人によって旅の安全を祈願された。出産を司る女神でもあるため、陣痛の痛みを和らげるために祈られることもあった[ 12] 。また、テッサリア ではヘカテーを崇拝する女魔術師たちが変身用の軟膏(魔女の軟膏 )を作り、ハエや鳥に変身して空を飛んだといわれる[ 33] 。
眷属として、女神エリーニュス たち[ 34] 、ランパス たち[ 35] やエンプーサ 、モルモー といった魔物を従えている[ 31] 。
夜と魔術、月の女神としてアルテミスやセレーネーと同一視、混同された[ 15] 。ペルセポネーと同一視される場合もある[ 36] 。
ヘレニズム・ローマ期
魔術パピルス文書
ヘカテー・トリモルポス
ヘカテーはヘレニズム 末期エジプトの[ 37] 『ギリシア語魔術パピルス (英語版 ) 』(以下PGM)[ 注釈 3] に頻出する神格の一人である。ミシェル・タルデュー (フランス語版 ) によれば、魔術パピルス文書のそこかしこに現れるヘカテーの背景には、女神に付随する象徴的意味の広がりや、他の神々と結びつけたり同一視するシンクレティズム の体系がある。そこではヘカテーは月の女神アルテミス やセレーネー 、陰府 の女神であるペルセポネー やバビロニアのエレシュキガル と同一視されている。PGMの英訳を編纂したハンス・ディーター・ベッツ (英語版 ) はこれに関して、PGMの表出するヘレニズム的シンクレティズムはそれまでのエジプトやギリシアの伝統宗教よりも冥府神を重視する傾向が顕著であると指摘している。
PGMにおいても、古典期ギリシアの伝承 と同様に「三形態のヘカテー」(ヘカテー・トリモルポス)は道の交わるところ の女神(ヘカテー・トリオディティス=三叉路のヘカテー[ 41] )であり、道路の守護神であった。古代の城市外の三岐路は魔術に適した場所と考えられており、そこは冥界の女神ヘカテーやコレー が夜に出そうなところであった。
神働術
『カルデア神託 』[ 注釈 4] においては、ヘカテーは世界霊魂 であり、父と知性を媒介する「力」(デュナミス)としての女性原理である[ 45] 。
後4世紀のローマ皇帝ユリアヌス は、カルデアの神学と神働術 を取り入れたイアンブリコス派新プラトン主義の影響を受け、神働術のヘカテーに捧げた『神々の母への賛歌』を著した[ 46] 。ユリアヌスは「神々の母」としての神働術のヘカテー、即ち冥界と地上を結ぶ女神を、ローマ帝国の各地で信仰されていたさまざまな月の女神や地母神と同一視した[ 47] 。後5世紀アテナイの新プラトン主義者プロクロス は、かれの後継者マリノスの『プロクロス、あるいは幸福について』(通称『プロクロス伝』)によれば、ヘカテーの光り輝く姿を幻視したという[ 48] [ 49] 。
タルデューの論述によれば、これら『カルデア神託』の註釈を書いたと伝えられる新プラトン主義者たちの受け継いだヘカテー観は、魔術パピルス文書のあらわすシンクレティズムから汲み上げられた養分によって肉付けされているという。
グノーシス文書
後期グノーシス主義 の一文書として知られるアスキュー写本、通称『ピスティス・ソフィア (英語版 ) 』にもヘカテーの名が登場する。それによると、ヘカテーはヘイマルメネー(星辰による運命)を定める黄道十二宮の天球の下にある中間界を支配する360人の頭領たちを統率すべくイェウー によって任命された5人のアルコーン の一人である。同書の悪霊論においてアルコーンの(2番目の[ 注釈 5] )五つ組の第3位を占めるヘカテーは、3つの顔を有し、その配下には27人の悪霊がいる。
中世以降
マクシミリアン・ピルナー (英語版 ) の1901年 の絵画『ヘカテー』。個人 蔵。
ギュスターヴ・モロー の1894年 - 1895年頃の絵画『ユピテル とセメレ 』に描かれたヘカテー(左下の細部)。ギュスターヴ・モロー美術館 所蔵。
中世 においては魔術の女神として魔女 と関連付けられた[ 13] 。
また、シェイクスピア によって書かれた戯曲 『マクベス 』に登場するヘカテーは、マクベスに予言を行った3人の魔女たちの支配者として描かれている[ 51] 。
ゲーテ による『ファウスト 』の中では、ディアーナ、ルーナ 、ヘカテーという三つの名と姿を持つ女神として言及されている[ 52] 。
そして、現在 ではウイッカ の実践者たちの間で信仰されている[ 53] 。
日本への紹介
江戸時代 の地理学者山村才助 が著した『西洋雑記』では、「ヘカッテ(ヘカテー)」についての言及がある[ 10] 。
[
中略 ]歳星の女を「
ヂアナ 」といふ。世に是を猟神と称す。此神神通廣大にして。一體三名あり。天に在りては「
マーン 」(月輪を云)と現じ。世界にありてハ「ヂアナ」と称し。地獄にありてハ「ヘカッテ」と號す。
[ 10]
脚注
注釈
^ ヘーシオドスの叙事詩。ホメーロス の英雄 叙事詩 で断片的・個別的に歌われていた個々の神話 ・伝説 を、『神統記』は神々・世界・人間の歴史 という観点から整理統一し、巨大な世界観 を示している。「後世のギリシャの神話体系が『神統記』の枠を超えることができなかった点からも、この作品のもつ意義はきわめて大きいといわざるを得ない」とされている。この作品の主題は神々や神霊に加え、海 ・山 ・天 ・星 辰(せいしん)、さらに苦痛 ・労苦・飢餓 ・争い 等、人間に強く影響する無数の神々の起源 と系譜 を(つまり宇宙 の始原から秩序 世界 成立の全過程を)歌い、語り、説き明かすことだった。この作品は神々の生成論(テオゴニアー)であり、宇宙生成論(コスモゴニアー)としての一面をも持ち、後のギリシア哲学 の形成においても重要である。また詩人の独創的思索力と同時に、「古代東方思想の影響も多い」とされている。
^ ギガントマキアー自体は数多くの神々が参加した総力戦だったが、実際にギガースの1人を倒しているのはオリュムポス十二神 の神々以外ではヘカテーとモイライ のみであり、ここでも別格の扱いを受けている。
^ 『ギリシア語魔術パピルス』 (Papyri Graecae Magicae , PGM ) とは、前2世紀から後5世紀頃までのエジプトの魔術パピュルス文書群を学者が命名したもの。
^ 『カルデア神託』とは、後2世紀の「カルデア人ユリアノス」、もしくはその息子「神働術者ユリアノス」が神の啓示を記した神託集で、完本は失われているが他の著述家に引用された断片が残っている。これもヘレニズム的シンクレティズムの特徴を有しており、イアンブリコス やプロクロス といった新プラトン主義者 らによって聖なる書として重んじられた[ 44] 。
^ 同書137-138章ではクロノスから始まるアルコーンの五つ組、139-140章ではパラプレークスから始まるアルコーンの五つ組についての言及があり、ヘカテーは後者に属する (G. R. S. Mead英訳 Pistis Sophia 参照)。
出典
参考文献
日本語文献
非日本語文献
Clay, Jenny Strauss (2003). Hesiod's Cosmos . Cambridge University Press. ISBN 0521823927
Jim, Suk Fong (2015). “Can Soteira be Named?: the Problem of the Bare Trans-Divine Epithet”. Zeitschrift für Papyrologie und Epigraphik 195 : pp. 1-19.
Mueller, Mark (2014). Hypsistos Cults in the Greek World During the Roman Imperium (Doctoral dissertation)
Hans Dieter Betz (ed.) (1996). The Greek Magical Papyri in Translation, Including the Demotic Spells, Volume One: Texts (Paperback ed.). The University of Chicago Press
Luck, Georg (2006). Arcana Mundi - Magic and the Occult in the Greek and Roman World (2nd. ed.). The Johns Hopkins University Press
関連項目
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