ブライアン・アディアス
ブライアン・アディアス(Brian Adias、本名:Brian Gower、1960年4月6日[2] - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州デントン出身[2]。 地元テキサスのダラス地区を主戦場に、初期はベビーフェイス、後に技巧派のヒールとなって活動した[1]。 来歴フォン・エリック兄弟とは幼馴染であり、ハイスクール時代はケリー・フォン・エリックのクラスメイトで、ケリーと同じく陸上競技で活躍していた[1]。 1979年、フリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCWおよびWCWA)においてデビュー[1]。フォン・エリック兄弟の友人のベビーフェイスとしてプッシュを受ける[1]。当初はブライアン・アディダス(Brian Adidas)のリングネームを用いていたが、同名のスポーツ用品メーカーからのクレームもあり、後にブライアン・アディアス(Brian Adias)と改名している[1][4]。 1982年6月21日にはワイルド・ビル・アーウィンを破り、WCCW認定のTV王座を獲得した[5]。1983年は太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングにも参戦、8月20日にバディ・ローズと組み、リップ・オリバー&ジ・アサシン(デビッド・シェラ)からNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している[6]。本拠地のダラス地区では12月5日にスーパー・デストロイヤーを下してTV王座に返り咲き[5]、12月25日にはアイスマン・キング・パーソンズと組んでNWAアメリカン・タッグ王座も獲得した[7]。 1984年はジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区に参戦して、タリー・ブランチャード、ボブ・オートン・ジュニア、ザ・グレート・カブキ、エイドリアン・ストリートなどと対戦[8]。6月10日には同地区と提携していたトロントのメープル・リーフ・レスリングにおいて、ドン・カヌードルからカナディアンTV王座を奪取[9]。同年11月22日にはクロケット・プロの年間最大のイベントだったスターケードに出場し、ミスター・イトーから勝利を収めた[10]。 1985年にダラスのWCCWに戻ると、7月29日にジノ・ヘルナンデスを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得[11]。9月2日のイベント "WCCW Labor Day Star Wars" においてヘルナンデスに奪還されるも、同日はケリー&ケビン・フォン・エリックとのトリオでマーク・ルーイン、ワンマン・ギャング、ジャック・ビクトリーからNWA世界6人タッグ王座を奪取している[12][13]。以降もヘルナンデスとテキサス・ヘビー級王座を賭けた抗争を展開し、翌年の7月4日にバズ・ソイヤーに敗れるまで、WCCWのフラッグシップ・タイトルだった同王座を通算3回獲得した[11]。 1986年、ヘルナンデスの急逝やケリーのバイク事故による長期欠場など、リング外の諸般の事情に伴い、当時のWCWA(WCCWより改称)でブッカーを務めていたブルーザー・ブロディの発案でヒールに転向[1]。マイク・フォン・エリックを裏切ったというアングルのもと、ゲーリー・ハートをマネージャーに迎えてフォン・エリック兄弟と抗争を繰り広げた[1]。同年12月1日にはアル・マドリルと組んでランス・フォン・エリック&ディンゴ・ウォリアーからWCWA世界タッグ王座を奪取している[14]。このヒールターンを機に、かつてWCCWを主戦場としていたキラー・カーンやテリー・ゴディに倣って「オリエンタル・スパイク」なるスロート・クローをフィニッシュ・ホールドに用いるようになった[1]。 1988年にWCWAを離脱し、ケン・マンテル主宰のワイルド・ウエスト・レスリングを経て、1991年は新興団体のGWFで活動[1]。ベビーフェイスのポジションに戻り、因縁のビル・アーウィンをはじめ、ブラック・バート、ランディ・ローズ、ダグ・サマーズ、バディ・ランデルなどと対戦した[15]。以降、しばらくリングを離れた後、1997年から1999年にかけて、ダラスのインディー団体CWAに出場していた[16]。 得意技獲得タイトル
脚注
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