フシチイシュ公国・チェルニゴフとその分領公国 C:チェルニゴフ公国 V:フシチイシュ公国 N:ノヴゴロド・セヴェルスキー公国 K:クルスク公国 R:ルィリスク公国 P:プチヴリ公国 T:トルブチェフスク公国 ・周辺の主な公国 KI:キエフ公国 PE:ペレヤスラヴリ公国 RY:リャザン公国 S:スモレンスク公国 ポイントは公国の首都の位置のみを示す。(公国はモンゴルのルーシ侵攻以前のみ)国境線は2014年現在。 フシチイシュ公国[1](ロシア語: Вщижское княжество)は、フシチイシュを首都とし、1156年から1239年にかけて存在した、チェルニゴフ公国の分領公国である。 歴史12世紀前半において、公国の領域はチェルニゴフ公フセヴォロド[C]の統治下にあったが、この地は1142年にウラジーミル・ダヴィドヴィチ[A]に譲渡された。初代フシチイシュ公の座に就いたのは、ウラジーミルの子のスヴャトスラフ[B]である。 1159年、スヴャトスラフの治世にフシチイシュは、ポロツク公国、ガーリチ公国のドルジーナ隊と共に現れた、チェルニゴフ公スヴャトスラフ [F]の攻撃を受けた。都市は包囲されたが、ウラジーミル大公アンドレイ・ボゴリュブスキー の派遣した援軍によって落城を免れた。それにもかかわらず、フシチイシュ公国はチェルニゴフ公スヴャトスラフに従属することになった。1164年にチェルニゴフ公スヴャトスラフが死んだ後に、フシチイシュ公スヴャトスラフ(上記の初代フシチイシュ公)がチェルニゴフ公家の最年長者となったが、彼はチェルニゴフ公位を求めず、1167年に死ぬまでフシチイシュ公の座にあった。フシチイシュ公スヴャトスラフの死後、フシチイシュ公国はスヴャトスラフの親族や、チェルニゴフ公スヴャトスラフ [D](上記のチェルニゴフ公スヴャトスラフとは別人)・ヤロスラフ [E]兄弟らによって分割された。なお、この分割に対して、ノヴゴロド・セヴェルスキー公オレグ[G]は不満を抱いていたと判じられている。 1238年春、モンゴルのルーシ侵攻が始まり、フシチイシュは徹底的に破壊された。なお、この出来事に関連して、フシチイシュ公ウラジーミル[H]の4人の息子が死亡したとみなす説がある[2]。都市と公国は消滅した。13世紀の半ば以降、ヴシチジュ公国の領域はブリャンスク公国 に接収された。 関係者家系図(略図)
出典
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