フィクトセクシュアル![]()
フィクトセクシュアル(英: fictosexuality、中: 纸性恋)は、架空のキャラクターへ性的に惹かれるセクシュアリティである[2][3][4]。虚構性愛と訳されることがある[3]。 架空のキャラクターへ恋愛的に惹かれることを表す言葉としては、フィクトロマンティックが用いられる[4][5]。フィクトセクシュアルは「Fセク」と略される場合があり、フィクトロマンティックは「Fロマ」と略されることがある[5]。 医学的な診断カテゴリーではなく、当事者のためのアイデンティティのラベルであり、またフィクトセクシュアルを周縁化する構造的問題を指し示すためのカテゴリーである[6]。 概要社会学者の松浦優の調査によれば、「架空の性的表現を愛好しつつも実在の他者には性的惹かれを経験しないということ」あるいは「『性愛』や『恋愛』として一般的に想定されるような営みを架空のキャラクターと行いたいと感じること」を表す言葉として用いられている[2]。 フィクトセクシュアルという言葉は英語圏のアセクシュアルコミュニティで用いられることがあり[7][8]、日本でも広義のアセクシュアルとして自認している人がいる[2]。また、性的空想をするものの自ら性交渉をしたくはないというエーゴセクシュアルの人が、フィクトセクシュアルという言葉を使うこともある[2]。ただし全てのフィクトセクシュアルの人々がアセクシュアルを自認しているわけではない[6]。 フィクトセクシュアルの人々は対人性愛中心主義のもとで差別や周縁化を被ることがある[2][9][10]。そのため、フィクトセクシュアルの承認や対人性愛中心主義の相対化を推進する社会運動が存在しており[10]、2019年には台湾で世界初のフィクトセクシュアル運動団体が発足している[9][11]。 研究人口学的研究フィクトセクシュアルに関する統計的調査はまだ限られている。日本性教育協会が2017年に実施した「第8回 青少年の性行動全国調査」によれば、「ゲームやアニメの登場人物に恋愛感情を持つ」経験が「ある」と答えた人の割合は、中学男子13.1%、中学女子16.0%、高校男子13.6%、高校女子15.4%、大学男子14.4%、大学女子17.1%である[12]。 フェミニスト/クィア研究フィクトセクシュアルの立場からは「対人性愛中心主義」という概念が提起されている。これは「生身の他者に対して性的・恋愛的に惹かれることが規範的なセクシュアリティとされること」である[2][10]。フィクトセクシュアルの人々はこのような規範のもとで、差別や周縁化を被ることがある[2][11]。 対人性愛中心主義は異性愛規範やトランスジェンダー差別と結びついているほか[13][14]、アセクシュアルを周縁化する強制的性愛や、対物性愛を周縁化する人間性愛規範とも関連していると指摘されている[15]。 フィクトセクシュアル研究のなかには、アセクシュアル研究から影響を受けているものがある[2][16]。エリザベス・マイルズは「現在のアセクシュアルの理論化と同じように(……)二次元キャラクターへの欲望は、セックスとは何か、法的・社会的な禁止が性的アクセスや十全な性的市民権をいかに否定するのか、について私たちに再考させるものである」と論じている[17]。 クィア理論的な研究も行われている[14]。松浦優は、二次元をめぐるセクシュアリティがバトラー的なパフォーマティヴィティとは異なる仕方で支配的な規範を攪乱するということを、テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念、東浩紀によるデリダ読解、およびカレン・バラッドのポストヒューマニズム的パフォーマティヴィティ論を通して理論化している[6][13][14]。その攪乱とは、「以前には存在しなかったカテゴリーの存在物をアニメーションによって構築することを通して、知覚の仕方や欲望のあり方を変容させること」[18][14]である。このような攪乱は、「生身の人間の身体とは異なる仕方でジェンダーが物質化されること」[14]によって生じるものである。 フィクトセクシュアルの人へのインタビュー調査から、かれらがアセクシュアルと同じように強制的性愛による抑圧を経験することがあると示されているほか、性的欲望は必ずしも性交への欲望ではないことも調査から示唆されている[19][16]。日本や台湾でのインタビュー調査から、フィクトセクシュアルの人々の実践には強制的性愛や対人性愛中心主義への抵抗の可能性が見られると指摘されている[9][16][19]。 架空のキャラクターとの関係Karhulahtiらが指摘しているように、フィクトセクシュアルの人々は「虚構と現実を混同しているのではない」が、「人間を相手にするのと同じようにはキャラクターと相互行為できない」ために苦悩を経験することがある[8]。このパラドックスは、廖希文による台湾での調査からも確認されている[16]。 しかしフィクトセクシュアルの人と架空のキャラクターとの関係は、必ずしも一方向的なものではない。インターフェイスやキャラクターのグッズなどさまざまな媒体や、二次創作のような実践を通して、フィクトセクシュアルの人々はキャラクターとの感情的なつながりを経験したり、キャラクターの存在を感じたりすることがある[8][16]。廖希文は台湾での調査をもとに、フィクトセクシュアルの人々と架空のキャラクターとの関係は人類学における「関係的認識論」(relational epistemology)や「分人」(dividual)の観点から理解できると示唆している[16]。 他方で、すべての異性愛者が性的接触を望むわけではないのと同じように、フィクトセクシュアルの人々のなかにも架空のキャラクターとの相互行為を望まない人々がいる[2][19]。松浦の調査が示すように、エーゴセクシュアル的な人が、自身の愛好するものがフィクションであるということを強調するうえで、フィクトセクシュアルを自認していることがある[2]。こうした人々の存在は、フィクトセクシュアルならば架空のキャラクターとの性的・恋愛的な親密関係を望んでいるに違いない、という恋愛伴侶規範的なステレオタイプによって不可視化される[2]。そのため松浦の調査で示されているように、フィクトセクシュアル当事者からは、「セクシュアリティ」と「恋愛」の結びつきを自明視する認識に対する批判が提起されている[2]。 マンガ研究伊藤剛は「そもそもキャラ図像に対して「生身の身体」の写像、あるいは誇張されたステレオタイプ以外の読みの存在を認めないのであれば、フィクトセクシャルが欲望の対象とする〈もの〉自体の水準は見えてこない」と指摘している[20]。 差別やスティグマ対人性愛中心主義的な社会では、フィクトセクシュアルの人々はスティグマ化されたり不可視化されたりすることがあり[2][8][9]、それによってフィクトセクシュアルの人々が孤立や孤独感を経験する可能性がある[8][9]。またフィクトセクシュアルはしばしば単なる「嗜好」とみなされてLGBTQ+から排除されることがあると松浦優は指摘しており[2]、LGBTコミュニティからも偏見を向けられることがある[6][11]。 また二次元キャラクターに対する性的惹かれや性的欲望は、実際にはキャラクターというノンヒューマンへの欲望であるにもかかわらず、単に特殊な様式で描かれた人間に対する嗜好とみなされ、単なる対人性愛だと誤解されることがある[2][13][11]。一部の国では二次元の未成年キャラクターを描いた性的創作物を「児童ポルノ」として法規制しているが、そのような法規制によって、フィクトセクシュアルの人が精神的な苦痛を被ったり、祖国を離れざるを得なくなったりする事例が確認されている[21]。二次元の未成年キャラクターへの欲望を人間の子供に対する欲望とみなすことは、対人性愛中心主義的な偏見であると指摘されている[2][10][11]。 コミュニティやアクティビズム松浦の調査によれば、フィクトセクシュアルの人々のオンライン投稿からは、性的マジョリティを「対人性愛」と名指すことを通して、対人性愛中心主義を批判する主張が提起されている[2]。また松浦は、二次元の性的表現が生身の女性を性的対象化したり小児性加害を助長したりするという非難は、対人性愛中心主義的な発想に陥っていると批判している[2][13][22][14]。同時に対人性愛中心主義批判はレイプカルチャーを批判するものでもあると指摘しており[2]、対人性愛中心主義批判はフェミニストやLGBTQの運動との連帯を志向していると論じている[11]。 2019年には世界初のフィクトセクシュアル運動組織として「臺大御宅研究讀書會」が発足している[9][11]。設立者の廖希文は、フェミニズム系書店やアセクシュアル団体と連帯しつつ、フィクトセクシュアルに関する講演や啓発活動を行っている[11]。また廖は2023年に、フィクトセクシュアル当事者のためのコミュニティ「台灣紙性戀集散地」(台湾フィクトセクシュアル集散地)を設立している[9][11]。 2024年、松浦優がフィクトセクシュアルに関する啓発団体「Fictosexual Perspective」を設立し、フィクトセクシュアル当事者の経験や記録をアーカイブする活動を行っている[9][23]。 二次元キャラクターとの結婚をめぐる運動も存在する。2008年には二次元キャラクターとの結婚を法的に認めることを求める署名活動が行われた[24]。現時点では二次元キャラクターとの結婚は法的には制度化されていないが、「キャラクターとの婚姻届の受理・結婚証明書の発行およびキャラ愛のサポート」を行う団体として「次元局」が存在する[25]。イアン・コンドリーは、二次元キャラクターとの結婚について、「生身の他者とのつながりを求めるよりアニメのキャラクターと結婚したいと言うような可哀相な奴と茶化す態度は、現在支配的な風俗習慣を当然のものとして強制してしまうという危険を孕んでいる」と指摘している[24]。 参考文献
脚注
関連項目外部リンク
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