ピエール・ド・マリヴォー
ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリヴォー(フランス語:Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux、1688年2月4日 - 1763年2月12日[1])は、フランス王国(現:フランス)パリ出身の劇作家、小説家。生涯に約40の戯曲を著した。 アカデミー・フランセーズの座席24番の会員で、これまで伝統的であった同国出身の劇作家モリエール流の喜劇を改革し、女性に於ける恋愛心理の分析を特色とする喜劇を創始した[2]。 代表作は1730年にパリ・イタリア座で初演された『愛と偶然との戯れ』である[3]。同作は2011年に宝塚歌劇団星組によって『めぐり会いは再び』のタイトルで上演されている[4]。 また、マリヴォーの作品は極めて特徴的で、戯曲の主人公は決まって女性であり[5]、作品にロマンティック・コメディを組み込み、繊細で気取りを表現した文体は「マリヴォダージュ」Marivaudage と呼ばれる[3][5]。 マリヴォーは女性の恋愛心理を細かい描写で表現した。しかし、マリヴォーの存命中には観客から作品が充分に理解されず、収入的に失敗することも多かったが、20世紀に入ってから高く評価されるようになった[6]。 生涯1688年2月4日、フランス王国(現:フランス)のパリに、父はノルマンディー出身の法服貴族で資本家だった[5]ニコラ・カルレ Nicolas Carlet の元に生まれる。父の仕事の都合によりリヨンからリモージュへ移住し、幼少期はパリを離れてオーヴェルニュで過ごした。 最初は神愛オラトリオ会で学び、1712年にパリに戻り、法律を学んだ。 なお、パリでは同国出身の著述家ベルナール・フォントネルと親しくなり、フォントネルと知り合った以降は同国出身のランベール女公爵こと作家アンヌ=テレーズ・ド・マルゲナ・ド・クルセルや哲学者ジャン・ル・ロン・ダランベールの母であるタンサン女公爵ことクロディーヌ・ゲラン・ド・タンサンのサロンに出入りしていた。 1706年に処女作である『Le Père prudent et équitable』を著し、6年後の1712年に刊行した。 1710年代は戯曲よりも小説を多く著した(作品については当記事#作品を参照されたい)。なお、この頃、同国出身の作家アントワーヌ・ウダール・ド・ラ・モットと知り合っている。 1720年にはマリヴォー唯一の悲劇『アンニバル』をコメディ・フランセーズにて上演したが、失敗した[5]。しかし同年、イタリア人俳優ルイージ・リッコボーニが率いるパリ・イタリア座で[6]『恋に磨かれたアルルカン』を上演して人気を博し、劇作家としての地位を確立した[3]。 その後、スコットランドの財政家ジョン・ローのミシシッピ会社への投資によって破産し[7]、社会的な矛盾を感じるようになる。1711年からイギリスのエッセイスト、詩人ジョゼフ・アディソンとリチャード・スティールが刊行していたエッセイ新聞「ザ・スペクテーター」を模倣し、独自に1721年から1724年にかけて[8]新聞「スペクタトゥール・フランセ(Le Spectateur Français)」を刊行した。 1722年5月5日には戯曲『恋の不意打ち』を上演し、翌年1723年4月6日には『二重の不実』を上演した。 1742年から1763年にかけてアカデミー・フランセーズの座席番号24番の会員を務める。 1763年2月12日にパリで亡くなる。 作品マリヴォーの作品に登場する主人公は決まって女性であり、繊細な言葉遣いや言い回しは「マリヴォダージュ」と呼ばれる。ロマンティック・コメディの作品も多いが、『理性の島』のように人間の平等を主張する作品もある。 戯曲日付は初演された日である。
小説
日本で刊行された作品
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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