ビスマルク塔ビスマルク塔(ビスマルクとう、ドイツ語: Bismarckturm)は、かつてドイツ全土に建てられた、初代首相オットー・フォン・ビスマルクを称える塔である。 これらの塔は1869年[1]から1934年の間に建てられたもので、現在は173基が残っている[2][3]。これらの塔の多くは、ヴィルヘルム・クライスの『神々の黄昏』型のデザインによる47基[4]を含め、元はビスマルク柱(Bismarcksäulen)として建てられたか、あるいはそれに改造されたものである。この塔は、1899年に開催された学生組合のコンペ[5]で、できるだけ多くの標識塔(展望塔ではなく)の建設を奨励したことにさかのぼる。しかし、他のビスマルクの塔、例えば展望機能を持たない純粋な標識塔であるものは、しばしばビスマルク柱と呼ばれていた。 2007年にKlossとSeeleが234基の塔を新たに発見し[2]、それ以降の発見を併せて合計で約240基の塔を発見している[6][7]。 歴史世界初のビスマルク塔は、現在のポーランドに建っている。1869年、当時プロイセンの一部だったシレジアのオーバーヨンスドルフ村(現 ポーランド・ドルヌィ・シロンスク県ヤヌベク)に個人の主導で建てられた。海抜253メートルの丘の上に建っており、塔自体の高さは23メートルである。近くのヴェートリッシュの裕福な地主であるプロイセンの退役将校フリードリッヒ・シュレーター(Friedrich Schröter、1820-1888)が費用を負担した[1]。 ビスマルクの死から1年後の1899年の建築コンペで、建築家ヴィルヘルム・クライスが提出したデザインの1つをドイツの学生組合が選んだ。選ばれたデザインは、『神々の黄昏』の火の柱をモチーフとした花崗岩や砂岩による塔であり、全てのビスマルク塔の標準的なモデルとされた。重量感のある正方形のデザインで、寄付された金額に応じて、高さや幅を変えて建てられた。 ビスマルクに対する個人崇拝の表れとして、ドイツ各地(現在はポーランド、フランス、デンマーク、ロシア領となっている地域を含む)やニューギニア(ガゼル半島)、カメルーン(リンベ近郊)、タンザニアなどのドイツ帝国の植民地にも、様々な様式で建てられた。ビスマルク塔はオーストリア、チェコ、チリ(コンセプシオン)にも建設された。 ビスマルクの塔は全て、1871年にドイツを統一した前首相の功績を記念して、特定の日に頂上で灯火を焚く標識塔として計画されていた。ほとんどの塔に灯火装置が設置されていたが、全国的な標識塔の計画は失敗に終わり、多くの地方自治体が逸脱したデザインを選択した。塔の建築を行った建築家には、塔の基本デザインを行ったヴィルヘルム・クライス自身(58基を建築し、そのうち47基が『神々の黄昏』型デザインだった)のほか、ブルーノ・シュミッツなどがいる。 著名なビスマルク塔
脚注
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