ヒロボー
ヒロボー株式会社は、広島県府中市に本社を置く、プラスチック成形・無線操縦ヘリコプター製造などを手掛けるメーカーである。 無線ヘリ製造で世界トップクラス、国内シェア1位[1][2][3]。UAVも手掛ける[4]。紡績業で創業し、業種転換した歴史を持つ。 現在の事業は大きく分けて、無線ヘリを中心としたモデル事業と、自動車部品等のプラスチック製品製造のモールド事業からなる。本社工場は緑地化され工場見学もでき、ライブラリーを備える[5]。従業員の7割が女性である[6]。 沿革略歴
紡績業→「三備地区の繊維産業」も参照
創業者である松坂家は元々府中市で紡績業を営んでいた。戦前、松坂照三は「松坂報国紡績」を営み、その子である松坂美登が1949年に創業したのが「広島紡績」である[5]。報国紡績が太糸・広島紡績が細糸を扱い、2社とも下請けであった[5]。1968年、報国紡績は経営難となったため広島紡績に吸収され、備後地方唯一の紡績業者となったとされる[3][7]。1970年にヒロボーに改称[3]。 構造不況で国内紡績業の再編が進められた時に1971年のニクソン・ショック・1973年のオイルショックが起こる[7][2][3]。そこでヒロボーは生き残りのためレストラン・ボウリング場・ガソリンスタンドなど多角化を図る[7]。1972年、父・美登から引き継ぎ松坂敬太郎が社長代行に就任する[7]。ただ多角化は失敗し、旧・報国紡績の事後処理も残り、本業の紡績業の不振も合わせて、倒産寸前までに陥っていた[7]。 資金繰りの苦しい中で新規事業を2つ立ち上げる。1972年にプラスチック製造部門を創設、卵や豆腐を入れる容器の製造を始める[2][3][8]。1973年、ブレーカー製造会社(のちヒロボー電機・現在は菱陽電機に事業譲渡)を設立する[2][3][8]。大手の下請けであったが、これで紡績に従事した従業員を解雇することなく事業転換することができた[3]。 モデル事業1973年にミニカー製造を始める[8]。同年敬太郎はニュルンベルク国際玩具見本市を視察、ここで無線ヘリコプターに出会い、ヒロボーが培っていたプラスチックと電気部品製造の技術が活かせると閃いた[2][8]。敬太郎は帰国後社員に向けて「無線ヘリ生産を始め、世界一を目指そう」と発表した[8]。 1976年、東京ホビーショウで注目を集めた[9]。1977年には紡績業から完全に撤退し、ヘリコプター製造が事業の中心となった。そして1983年、「操縦しやすい完成品を手頃な値段」のモデルを発売し大ヒットしたことで一気にトップメーカーに踊り出た[3][9]。 1988年から産業用ヘリ製造に着手した[2]。ヤマハ発動機と共同で農薬散布用無人ヘリ「R-50」を開発、2012年には電動無人ヘリ「HX-1」を開発した[10]。2015年にはデンソーと共同でマルチコプター「HDC01」を開発している[4]。 モールド事業2008年、リーマン・ショックによる景気低迷により業績が悪化する[2]。そこで新たな事業として自動車のガソリンタンクに使う部品製造を始める[2]。2017年には取り扱う自動車関連部品を増やした[2]。2018年12月13日の朝日新聞の報道によると、ヒロボーの売上のうち9割が自動車部品を中心とするプラスチック製品になったという[2]。 関連会社
脚注
参考資料
外部リンク
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