ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース(Huey Lewis & The News)は、アメリカ合衆国のロック・バンドである。 1980年代に数々のヒットにより高い人気を博したアメリカン・ロックの代表的存在であり、特に、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌で世界的なブレイクを果たしている。 骨太のロックンロールを基盤に、ヒューイのハスキーボイスと爽やかなハーモニーを特徴とするキャッチーなサウンドは、1980年代アメリカのポジティブなイメージをそのまま音楽で表した存在と評される。 歴史ヒューイ・ルイス(Huey Lewis)は1950年7月5日にニューヨークで生まれる。母親がヒッピー思想家であり、白人ながら黒人居住区に住んでいたことで、自然とR&Bなどの黒人音楽に親しむようになった。コーネル大学工学部に入学するがすぐ退学。ほどなくしてサンフランシスコへ引っ越した。 コーネル大学時代にバンドを結成し音楽活動を始め、1972年にショーン・ホッパーとともにカントリーロック・バンドのクローバーに加入する(クローバーの前身、タイニー・ヒアリング・エイド・カンパニーは1966年結成。翌1967年にクローバーと改める)。1976年、クローバーはパブロック界の大御所ニック・ロウの誘いを受けて渡英、エルヴィス・コステロのファーストアルバムのバックを務めることとなる。ヒューイの加入後、1977年にサードアルバムをリリース、その後4枚目のアルバムも発表したが解散。なお、サードアルバムのジャケット表記では、ヒューイは「HUEY LOUIS」という綴りになっていた。 この時期ヒューイをはじめとするクローバーの面々はアイルランド・ダブリン出身でイギリスでも高い人気を得ていたシン・リジィの前座として起用され、その縁でリジィのアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』にヒューイがブルースハープ奏者として参加している。ヒューイはリジィのリーダーであったフィル・ライノットから多くのことを学び、自らの糧とする。後述するようにヒューイは多くの才能の発掘・人気向上に力を貸すことになるが、その姿勢は駆け出しのU2、ブームタウン・ラッツなどに力を貸したライノットの姿勢に重なるところがある。 クローバー解散後ヒューイはサンフランシスコに戻ってアメリカン・エキスプレスというバンドを結成するが、これも失敗に終わっている。 その後、ヒューイ・ルイスは、1979年に失業中のミュージシャン達を集め、サンフランシスコにかつて存在した、「アンクル・チャーリーズ」という酒場で、後にニュースのメンバーとなる、ジョニー・コーラ、クリス・ヘイズ、マリオ・シポリナ、ビル・ギブソン、ショーン・ホッパー(ヒューイと共にクローバーで活動していた)らとバー・バンドとして活動を開始。そんな中、後にマネージャーとなる、ビル・ブラウンが彼らの才能を見出して、彼の力でめでたくクリサリス・レコード社との契約を結んだ。 下積みを経て1980年、ヒューイ・ルイス&ジ・アメリカン・エキスプレスを結成、これがヒューイ・ルイス&ザ・ニュースと名を変えてデビューする運びとなった。1980年にリリースされたファースト・アルバム『ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース』は、商業的失敗に終わったが、1982年にセカンドアルバム『ベイエリアの風』からシングルカットされた「ビリーヴ・イン・ラヴ」[4]がヒットしたことで、ようやくヒューイは日の目を見る。 翌1983年には『スポーツ』を発表。「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」、「ハート・オブ・ロックンロール」、「いつも夢見て(If This Is It)」などのヒットを放ち、アルバムは800万枚以上を売り上げ、バンドは一躍スターの仲間入りを果たした。また「アイ・ウォント〜」が半年後にレイ・パーカーJr.の「ゴーストバスターズ」に盗用され、裁判沙汰になるというオマケもついてきた。 1985年には大ヒット映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌「パワー・オブ・ラヴ」が全米1位の大ヒットを記録する。ヒューイも映画に脇役(オーディションの審査員)としてカメオ出演。主人公マーティが「パワー・オブ・ラヴ」のイントロ部分の演奏途中で「分かった、もういい、止めろ、うるさ過ぎる、次のグループの番だ」という台詞を言う。同年にヒューイはUSAフォー・アフリカの「ウィー・アー・ザ・ワールド」に参加、ブリッジ部分でリード・ボーカルを務めた(プリンスの代役)。翌1986年のアルバム「FORE!」からは「ジェイコブズ・ラダー」と「スタック・ウィズ・ユー」の2曲が全米シングルチャートのナンバー1に輝き、バンドの人気は絶頂を極める。 苦労人で義理堅いヒューイは、サンフランシスコ出身のベテラン・ファンク・バンドのタワー・オブ・パワーのホーンセクションを起用し、その復活に力を貸した(1991年のアルバム『ハード・アット・プレイ』には彼らのホーンセクションは登場しない)。またニック・ロウの「アイ・ニュー・ザ・ブライド」をプロデュースしてアメリカでヒットさせている。1986年にデビュー曲「ザ・ウェイ・イット・イズ」の全米1位ヒットを放ったブルース・ホーンズビー&ザ・レインジは、ヒューイが見つけ出した才能の一人だった。 1988年の『スモール・ワールド』以降はバンドの方向性を巡ってレコード会社と衝突することも多く、移籍を繰り返した。1994年には、エレクトラ・レコードからオールディーズのカヴァー・アルバム『バック・トゥ・ザ・ルーツ〜グレート・アメリカン・ソングス・トリビュート』(原題:Four Chords & Several Years Ago)を発表した[5]。メジャー・レーベル以外からアルバムをリリースすることもあったが、現在も活動を続けている。 そんなヒューイ・ルイス&ザ・ニュースにも脱退者が出てくる。1995年にはベーシストのマリオ・シポリナが脱退し、2代目のジョン・ピアースが引き継いだ。2001年には、1980年からギタリストを勤めてきたクリス・ヘイズが脱退し、ギターは2代目のステフ・バーンズが担当することになった。 2006年8月には元ベーシストのマリオ・シポリナが強盗と覚醒剤所持の疑いで逮捕されたが、裁判は終わった模様である(シポリナはメンバー脱退の1年後の1996年にも覚醒剤所持で逮捕されたが、不起訴処分だった)。 2007年8月21日には、復活報告を兼ねて、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのライブにゲスト出演した。 2008年1月28日、シカゴと共同で、4月に来日公演を東京・名古屋等で行うことが発表された。 2008年4月16日、公演のために来日していたヒューイが、Zepp大阪でのフー・ファイターズのステージに、1曲ハーモニカで飛び入り参加。 2009年4月13日、サックス奏者ロン・スターリングスが、3年間、闘病していた多発性骨髄腫により死去。 2010年7月7日、ジョニー・バモントがバリトン&テナーサックス担当として、正式メンバーに。バリトンサックス兼任だったロブ・サダスは、テナーサックス専門に。 2018年4月13日、ヒューイが内耳障害であるメニエール病の治療のため2018年に行われる予定だったツアーの全面キャンセルの発表とともに、チケットを購入したファンへ謝罪した。[6] メンバー※2019年11月時点 現ラインナップ
サポート
旧メンバー
在籍タイムライン日本公演
ディスコグラフィ→詳細は「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの作品」を参照
アルバム
シングル1980年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1991年
1994年
1995年
1996年
2001年
脚注
外部リンク |
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