ハンス・ベートゲ![]() ハンス・ベートゲ(Hans Bethge、1876年1月9日 - 1946年2月1日)は、ドイツの詩人。詩人としてはあまり大きな功績を残さなかったが[1]、アジア諸言語の詩の翻訳、とくに漢詩を翻訳した『中国の笛』によって記憶されている。 生涯ベートゲはデッサウに生まれた。哲学、ドイツ文献学、ロマンス語学をハレ、ジュネーヴ、エアランゲン大学で学び、1899年に博士の学位を得た[2]。スペインで教師をつとめた後、1901年以降はベルリンでフリーの作家として生活した[3]。 第二次世界大戦の爆撃や空襲を避けて1943年にキルヒハイム・ウンター・テックに逃がれ、1946年にゲッピンゲンで病死した[3]。 甥のエーバーハルト・ギルバート・ベートゲ (de:Eberhard Gilbert Bethge) による伝記が出版されている[3]。
業績1898年以来詩、エッセイ、物語、日記などを出版した[3]。 ベートゲのもっとも有名な翻訳作品は漢詩のドイツ語訳である『中国の笛』(Die chinesische Flöte、1907年)であり、78,000部が売れ、18刷されるヒット作品となった[4]。ベートゲは中国語を知らなかったが、既存のヨーロッパ諸言語の翻訳を元にしている[4]。『中国の笛』を元にしたクラシック音楽としてはグスタフ・マーラー『大地の歌』(1908年)がもっともよく知られるが、ほかにもリヒャルト・シュトラウス、エルンスト・トッホ、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルンら多数の作曲家が曲をつけている[5]。 ベートゲの翻訳は原作からかなり自由であり、たとえば『大地の歌』第1楽章は李白の「悲歌行」に由来するが、有名な「生は暗く、死もまた暗い」というリフレーンは対応する原詩の文句が存在しない。 ベートゲはその後アラビア、ペルシャ、トルコ、インド、アフガニスタン、ネパール、アルメニア、日本の文学の翻訳書11冊を出版しているが、ベートゲ自身はどの言語も知らなかった[6]。 『日本の春』(Japanischer Frühling、1911年)は時代別に104首の和歌を集めている[7]。元になったカール・フローレンツ『日本文学史』(1906年)では和歌とほぼ同じ音節数になるように翻訳されているが、ベートゲの翻訳はもとの和歌の形式を保っていない[8]。『日本の春』はフェリックス・ワインガルトナー、ハンス・アイスラー、ゴットフリート・フォン・アイネム、ルドヴィク・イルゲンス=イェンセンら約20人以上によって曲がつけられている[9]。同書はA・ブラントという人物によって1912年にロシア語に翻訳され[10]、これを元にイーゴリ・ストラヴィンスキー『3つの日本の抒情詩』(1912-1913年)やドミートリイ・ショスタコーヴィチ『日本の詩人の詞による6つのロマンス』(1928-1932年)が作曲された。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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