暫定的に書きました。もっと詳しいという方、完成をお願いします。FOUより。
大学部分の内容をリバートしてしまって申し訳ありませんでした。岡山県と間違えていました…たね 2005年2月20日 (日) 05:39 (UTC)[返信]
自分にミスなのに治せなくてすいませんが、ココの修正願います。すいません 221.66.238.145 2007年3月17日 (土) 01:43
(UTC)
修正して下さりありがとうございました。すいませんでした221.66.238.145 2007年3月21日 (水) 13:28 (UTC)[返信]
政令市への動きの項目の内容ですが、要約し大部分を岡山県南政令市構想に移転もしくは内容の削除をしたほうが良いのでは無いでしょうか。--Tatushin 2007年12月21日 (金) 10:59 (UTC)[返信]
- ご意見が無く問題もないと判断し大部分を岡山県南政令市構想に移転します--Tatushin 2007年12月30日 (日) 09:31 (UTC)[返信]
- 移転に関する正しい手続きが取られていませんでしたので差し戻しました。Wikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記にある手順で行ってください。転記先は削除依頼しました。--Knua 2008年1月2日 (水) 11:07 (UTC)[返信]
- 申し訳ありません、手順を完全に行っていませんでした。また、時期を見計らって行いたいと思います。--Tatushin 2008年1月2日 (水) 14:57 (UTC)[返信]
何度も追加の編集をされ、文章全体がおかしくなっているので訂正させてただきました。
法定人口うんぬんにこだわる方がおられますが、総務省から正式な見解が出ていない以上人口要件の解釈は推測に過ぎず、ここでの記載ルールに違反していることになります。
あくまで事実関係のみの記載にしてください。岡山市の政令指定都市移行はまだ正式決定ではありませんので、判明すれば事実に基づく内容にして岡山県南政令指定都市構想に統合して分離すべきでしょう。今は市政の重要な話題なので岡山市にあっても問題はないかとも思います。。--Koro123 2008年2月4日 (水) 20:57 (UTC)[返信]
本文中に江戸時代の岡山城下町について、『江戸時代の1704年(宝永4年)、城下町・岡山の人口は、武家が2万2904人、町方が3万0635人で、計5万3539人であ
った。』とありますが、いくつかの点で誤りがあるので訂正しました。
- 宝永4年は西暦1707年です。
- 武家の人口として2万2904人が紹介されておりますが、おそらく谷口澄夫著『岡山藩政史の研究』(1964年)に記載されている武家人口をそのまま掲載したのでしょうが、この数字自体に誤りがあります。「2万2902人」は、「徒格から末々まで家内」の男1588人を誤って1888人とカウントし、藩主一門24人をカウントしていない数字で、2万2628人が正しい数字です(藩主一門をカウントしないこと自体は意図的だったのかも知れませんが)。
- しかるにこの「2万2628人」という数字も、在方、町方人口としてカウント済みの人口(すなわち武家奉公人や郷士階級)を加えたものであり、本来の家中人口は1万0027人です。
宝永4年旧暦6月15日の支藩を含めた岡山藩の総人口は以下の通りです(以下『岡山県史』24巻「岡山藩文書」に活字化された原文が記載されています)。
内訳
|
人口
|
御城女中 |
70
|
家中 |
10,027
|
在中 |
334,668
|
鹿久居流人・郡方牢舎人 |
187
|
町中 |
28,298
|
乞食 |
346
|
寺社 |
7,932
|
御国者合計 |
381,528
|
他国者 |
1,497
|
惣人数 |
383,025
|
武家人口は以下のように「2万2628人」と記載されていますが、すでに町方人口、在方人口として帳簿に記載されている者「1万2170人」、他国者「431人」を除くと、家中人口は上の表にも登場する「1万0027人」となります。さらに支藩の人口、江戸・大坂在中分を引けばもっと少なくなります。なおこの時代他の藩では武家奉公人なども武家人口として数えるのが普通でしたが、岡山藩ではこれらの階級を家中とは区別していたことになります。
内訳
|
家中
|
町方・在方帳面者
|
他国者
|
合計
|
藩主一門から無足中小姓格まで758家 |
6,620 |
7,601 |
328 |
14,549
|
土鉄砲・忍び・御徒等762家 |
2,211 |
1,209 |
33 |
3,453
|
足軽・楫取・加子・小人等2436家 |
603 |
2,511 |
16 |
3,130
|
生坂・鴨方両支藩 |
593 |
849 |
54 |
1,496
|
惣人数 |
10,027 |
12,170 |
431 |
22,628
|
町方人口「3万0635人」は、厳密には「2万8298人」で、これに在方からの出稼ぎ人・奉公人や他国人を加えた数字です。
内訳
|
人口
|
町方 |
28,298
|
家中帳面者 |
16
|
在方からの出稼人(在方帳面者) |
1,745
|
他国者 |
156
|
町中に住居があるが在方帳面者 |
420
|
惣人数 |
30,635
|
寺社方人口については、通常他の藩では寺社方の土地に暮らす町人、農民がかなり居るはずですが、岡山藩の場合は17世紀中ごろに寺院の統廃合を強制的に行っており、寺社方支配場内に暮らす農民はゼロ、町人は全て町方人口にカウントされているようです。
内訳
|
人口
|
神官・僧尼 |
7,926
|
エタ |
6
|
寺社方合計 |
7,932
|
客僧 |
50
|
町方帳面者 |
1,222
|
他国者 |
77
|
惣人数 |
9,231
|
以上より宝永4年の岡山の城下町の人口は、3万0635人の町中人口に、町中の両山乞食(実態は非人)346人、多めに見積もった藩内の家中人口約9000人前後、これに町中の宗教関係人口約1000人?を加えて約4万1000人となります。ただ「在方」の人別帳に記載されている家中奉公人9082人のうち、一部は岡山城下町の武家屋敷に奉公しながら町中人口から漏れている可能性があります。在方扱いの家中奉公人が全て城下に暮らしていると仮定すると、岡山城下町の人口は最大で約5万人となります。ただし明和3年(1753年)の町中の戸数7922軒2万3512人(家持5070軒1万6843人+借家2852軒6518人)に対して明和元年(1751年)頃の侍屋敷は1295軒ですので、実態としてはそこそこの数の「家中」が岡山城下以外の土地に住んでいたことを示しますが、本文では安全のため4万~5万人としました(Tertius Chandlerの推定値は4万5000人)。
最後に参考までに岡山の町方人口を列挙します(『岡山県史』、『岡山市史』、『岡山藩政史の研究』などが典拠)。
元号
|
西暦
|
合計
|
町方
|
奉公人・
出稼人等
|
原史料
|
寛文7年3月 |
1667年 |
|
28,669 |
|
東備郡村試
|
寛文7年8月 |
1667年 |
|
28,432 |
|
東備郡村試
|
寛文8年 |
1668年 |
|
31,850 |
|
御巡見衆書上覚
|
寛文9年 |
1669年 |
|
28,459 |
|
御巡見衆書上覚
|
延宝8年 |
1680年 |
|
30,033 |
|
飢人育目録
|
天和年中 |
1682年頃 |
|
30,133 |
|
御巡見衆書上覚
|
宝永4年 |
1707年 |
30,635 |
28,298 |
2,337 |
有人改帳
|
享保2年 |
1717年 |
|
27,950 |
|
備陽記
|
享保6年 |
1721年 |
|
30,296 |
|
西川如見の覚書
|
元文3年 |
1738年 |
|
26,349 |
|
備陽記
|
宝暦3年 |
1753年 |
24,556 |
23,496 |
1,060 |
町中家数人数書上
|
宝暦12年 |
1762年 |
|
24,190 |
|
備前国岡山城下町中人数書上
|
明和3年 |
1766年 |
|
23,512 |
|
町中家数人数書上
|
明和4年 |
1767年 |
|
23,537 |
|
町中家数人数書上
|
明和5年 |
1768年 |
24,347 |
23,574 |
773 |
町中家数人数書上
|
安永元年 |
1772年 |
|
23,096 |
|
岡山町中家数人数覚
|
安永2年 |
1773年 |
23,579 |
22,915 |
665 |
岡山町中家数人数覚
|
安永6年 |
1777年 |
23,342 |
22,728 |
614 |
町中家数人数書上
|
天明3年 |
1783年 |
22,811 |
22,402 |
409 |
町中家数人数書上
|
寛政10年 |
1798年 |
21,357 |
21,218 |
139 |
留帳
|
享和2年 |
1802年 |
21,212 |
21,084 |
128 |
留帳
|
文化9年 |
1812年 |
21,103 |
21,092 |
11 |
留帳
|
天保9年 |
1838年 |
|
20,173 |
|
宗門改
|
嘉永7年 |
1854年 |
|
20,086 |
|
名歳帳寄せ目録、宗門御改寄せ目録
|
安政5年 |
1858年 |
20,101 |
20,092 |
9 |
宗門改
|
明治2年 |
1869年 |
20,670 |
|
|
人員家数 (寺社人口を含む)
|
明治6年 |
1873年 |
32,372 |
|
|
日本地誌提要 (総人口)
|
著名を忘れました。Orichalcum 2009年1月20日 (火) 19:43 (UTC)[返信]
横浜市出身の人物一覧やさいたま市出身の人物一覧などの他の政令市同様に出身有名人の節を「岡山市出身の人物一覧」に分割することを提案します。--118.8.183.25 2016年8月4日 (木) 14:54 (UTC)[返信]
賛成 この提案に賛成します。政令市出身の人物一覧は全て分割して良いと思います。 さわしお(会話) 2016年8月5日 (金) 00:50 (UTC)[返信]
済分割しました。--114.158.16.60 2016年8月13日 (土) 10:21 (UTC)[返信]
編集者の皆さんこんにちは、
「岡山市」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。
編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。
ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月3日 (火) 07:30 (UTC)[返信]
現在の岡山市の地域と岡山市域の廃止市町村に関する記事は、記事名の付け方や構成に一貫性がなく、非常に分かりにくくなっています。具体的には以下のような点が挙げられます。
- 「行政地域」と説明されている範囲の記事名の表記揺れ
- 同一記事中に旧市町村記事と現在の地域記事、もしくは町・字記事が記載
- 西大寺 (旧市域)と西大寺 (学区)の記事名
- 曖昧さ回避のためのカッコ書きが分かりにくく一般的ではない
- 主題の学区という括りに特筆性があるか不明
改名提案(第一段階)
提案 既にいわき市などでは上記のような問題の改善(例:平地区と平市の分割)を行いました。そこで、岡山市域の記事においても整理を行いたいと思います。
第一段階として「行政地域」と説明されている範囲の記事名の表記を統一することを提案します。該当する記事は以下の通りです。藤田については大字としての藤田の範囲を以て藤田地域と称されるため、改名対象から除外しました。福浜地域および富山地域については地域センターはあるものの記事として立項されておりません。
--七厩拓(会話) 2024年3月28日 (木) 22:15 (UTC)[返信]
- 追記 児島地域への改名ですが、既に倉敷市の児島地域が立項されているため、カッコ付の記事名としました。こちらの改名が終わり次第、倉敷市の方はWikipedia:雪玉条項を適用して児島地域 (倉敷市)に改名したいと思います。なお、跡地の児島地域は曖昧さ回避ページとする予定です。--七厩拓(会話) 2024年3月28日 (木) 23:24 (UTC)[返信]
- 報告 1週間が経過しましたが、反対意見は特段見られなかったので改名します。分割提案についても1週間の経過を確認次第作業に取り掛かりたいと思います。--七厩拓(会話) 2024年4月4日 (木) 21:51 (UTC)[返信]
分割提案(第二段階)
提案 第二段階として、第一段階で改名した行政地域の記事と既存の町字記事中から旧自治体部分を分割することを提案します。該当する記事は以下の通りです。なお、分割するタイミングは第一段階の改名を終えてからという想定です。
--七厩拓(会話) 2024年3月29日 (金) 18:27 (UTC)[返信]
- 報告 1週間が経過しましたが、反対意見は特段見られなかったので分割しました。--七厩拓(会話) 2024年4月6日 (土) 07:38 (UTC)[返信]
まず、地域センター設置条例によりますと、地域センターの管轄区域は区全体です。一方で、例えば津高地域センター管内の概要のデータは区全体と一致しないなど、市の資料が矛盾している状態です。また、そもそも各地域そのものの範囲を規定する資料が見つかりません。地域名には用例のあるものもありますが、地域の範囲がはっきりしません。仮に、地域の範囲=地域センターの管轄区域=区全体とすると地域区分として意味を成しませんし、旧市町村の区域とする記述と矛盾します。逆に旧市町村の区域とすると、地域センター管内とする記述と矛盾しますし、旧市町村の区域とする記述自体が独自研究です。支所と同名の地域についても同様に、旧市町村の区域とするのは独自研究と思われます。西大寺地域についても旧西大寺市域とするのは独自研究と思われ、また区役所の管轄区域も区全体ではないでしょうか。さらに困ったことに、各地域の記事から旧市町村などの記事を分割してしまっているため、削除もできない状態です。また同じ理由で岡山市の地域一覧も独自研究と思われます。--フューチャー(会話) 2024年6月16日 (日) 21:40 (UTC)[返信]
- 返信 (@フューチャーさん宛) 以前改名および分割を行った七厩拓と申します。改名および分割に際しては定義文など変更は行っていないはずなので、記事が作成されてすぐの早い段階から記述があったかと思われます。
- 各地域の範囲=地域センターとしていたことはこちらの調査不足でしたが、岡山市の公開する「行政区,支所(旧支所)別世帯数及び人口」では各地域の範囲が小学校の学区を基に明記されています。ただし、西大寺 (学区)や岡山市の地域一覧については地区の範囲が明確でない独自研究が多数見受けられますので、何かしら対応するべきかなと思っております。--七厩拓(会話) 2024年7月9日 (火) 13:35 (UTC)[返信]
- そこには○○地域という名称は使われておらず、旧市町村との対応もありません。○○地域のままでは範囲が明確でなく、人口と面積すら独自研究になってしまうものもあり、人口と面積が明確なのは旧支所ですので記事名を元に戻した上で(ただし西大寺は「旧市域」ではなく「旧支所」)、定義を旧支所管内とし、旧市町村については除去するか要出典をつけるかしようと思っています。--フューチャー(会話) 2024年7月9日 (火) 22:04 (UTC)[返信]
- 返信 (@フューチャーさん宛) こちらで詳しく調べたところ、岡山市の支所は灘崎・御津・建部を除いて全て政令指定都市移行後に地域センターへ改名されており、旧支所は地域センターと連続した同一の存在となります。現在の条例上は管轄範囲を区全体としながらも、ほとんどの地域センターでは「○○地域」として紹介文が掲載されていることを踏まえると(例:上道・一宮)、地域センターが慣習的に用いている地域は岡山市の公開する「行政区,支所(旧支所)別世帯数及び人口」にある地区と一致すると考えられます。
- また、各地域について範囲を調べたところ、少なくとも以下の地域で旧市町村との関連性を示す記述を見つけることができました。
- 条件付反対 地域センターと旧支所が同一の存在であることや、地域の範囲が明確に定義されている文献があることに加え、フューチャーさんの「記事名を元に戻す」という措置を行うと多数の問題が生じます。例えば、足守地域は改名を経ておらず、仮に建部のように「地域」をはずすとしても、大字の足守と記事名が競合する結果となります。
- 改名の手続きは行わず、定義や内容に関しては記事内の説明を変更するという措置でも対応可能なのではないでしょうか。改名をするとしても現在の提案内容では問題が多いので、より具体的に考えなければならないと思います。--七厩拓(会話) 2024年7月10日 (水) 16:54 (UTC)[返信]
- 返信が遅くなり申し訳ありません。資料の提示ありがとうございます。そうなると、改名は行わずとりあえず地域センターについて「管轄地域である」ではなく単に「設置されている」としておくのがいいでしょうか。--フューチャー(会話) 2024年7月14日 (日) 07:27 (UTC)[返信]
- 返信 (@フューチャーさん宛) 「地域センターの管轄地域である」というのは確かに誤りなので、削除した上で範囲を定義づける文を付け加えたり、提示された通り「地域センターが設置されている」とするのがよいかと思います。--七厩拓(会話) 2024年7月14日 (日) 15:27 (UTC)[返信]