仲介者(intercessor)としての聖ニニアン ("Ora pro nobis, Sancte Niniane")。 処女と聖ニニアンの時課の書 (Book of Hours of the Virgin and Saint Ninian、15世紀) の中の奉納肖像画(en:Donor portrait)。
731年のベーダの記述の当時は、ノーサンブリア人はノーサンブリアの前身であるバーニシア(en:Bernicia)の時代に始まるガロウェイとの1世紀かそれ以上の間破られない関係を楽しんでいた。この時にノーサンブリアはヨーク大司教(en:Archbishop of York)の管轄下で監督教区を設立していた。そのような監督教区が1つ731年にホウィットホーン(en:Whithorn)に設立されており、ベーダの記述はこの新しいノーサンブリア監督教区の正統性を支えるものである。バーニシアでの名前hwit ærnは ラテン語のcandida casa、ないし現代英語の 'white house' にあたる古英語であり、現在の名前のホウィットホーン(en:Whithorn)として残っている。
ベーダのニニアンに相当する人物の歴史的な記録は見つかっていない。しかしながら、高名な歴史家であるベーダが歴史的な記録に根拠をもつことなくニニアンという存在を創り出したということは考えづらいことであり、アイルランドの初期の聖人たちとホウィットホーンの初期のキリスト教徒の関係についての知識が増加していることとも相まって、ベーダの記述の根拠を見つける真摯な学術的な努力につながった。ジェームス・ヘンソーン・トッド(en:James Henthorn Todd)は、1855年出版の Leabhar Imuinn (古代アイルランド教会の賛美歌の書(The Book of Hymns of the Ancient Church of Ireland))にてモヴィラの聖フィネン(en:Finnian of Moville)を示唆しており[4]、この見解は現代の学者たちから有力視されている[5][6]。
伝説
ホウィットホーンのニニアン(Ninian of Whithorn)についての最初の言及は、731年頃ノーサンブリア人の修道士ベーダ・ヴェネラビリスによる イングランド教会史中の短い一節にある。 9世紀の詩司教ニニアンの奇跡(en:Miracula Nyniae Episcopi)は、彼にまつわるいくつかの奇跡を記録している。1160年頃には聖ニニアンの生涯(en:Vita Sancti Niniani)がリーヴォーのアエルレド(en:Ailred of Rievaulx)によって書かれ、1639年にはジェームズ・アッシャー(en:James Ussher)が著書 Brittanicarum Ecclesiarum Antiquitates の中でニニアンについて議論している。これらがホウィットホーンのニニアンについての情報源であり、彼の生涯についての当たり障りのない詳細を提示してくれているようにも見える。しかしながらこれらの話しを裏付ける疑いのない歴史的な証拠はなく、一方でどの情報も、その聖ニニアンの記述に依拠する政治的ないし宗教的な課題を持っていた。
聖ニニアンの生涯(en:Vita Sancti Niniani)中の奇跡に関する物語はさておき、アエルレド(en:Aelred of Rievaulx)は聖ニニアンに言及する付随情報を含んでいる。すなわち、彼の父はキリスト教徒の王だった、彼はローマで司教に任命された、彼は聖マルティヌスに会った、聖マルティヌスはニニアンの要望を受けて彼の帰途にあわせ石工たちを送り、石工たちは海辺に位置する石の教会を建てて、聖マルティヌスの死を知ったニニアンは教会を彼に捧げた、当時豊かで力のあった "王トゥドゥヴァラス" (King Tuduvallus)を彼は教化した、ピクト人たちの教化と帰郷の後に彼は亡くなり、石棺に収められて彼の教会の祭壇の近くに埋葬された、彼は一度 "プレビア" (Plebia)という名の彼の兄弟と共に旅したことがあった、といったものである[9]。
アエルレドは、ベーダによるニニアンについての情報の発見に加えて、"未開の言語" (barbarous language)で書かれた出典による更なる追加情報を彼の「聖ニニアンの生涯」に盛り込んだ、と言っている。しかしながら、この原典についての情報は一切ない。アエルレドはスコットランドの宮廷で10年間を過ごした後に聖ニニアンの生涯を書き、ガロウェイとスコットランドの聖人のこのような熱烈な描出の写本を望んでいるであろうスコットランド王家およびガロウェイのファーガス(en:Fergus of Galloway、ガロウェイ司教区(Bishopric of Galloway)を復活させた)の両者との親密な関係を持った。彼の業績は、おそらく政治的に野心的な聴衆のためを意図しており、トーマス・ヘファーナン(Thomas Heffernan)が "神聖な伝記" (sacred biography)として言及するものである[10][11]。
^Yorke, Barbara (2007), The Conversion of Britain: Religion, Politics and Society in Britain, 600–800, Religion, Politics and Society in Britain (ed. Keith Robbins), Harlow: Pearson Education Limited, p. 113, ISBN0-582-77292-3
^Newman 1845:11 "The Irish life referred to by Archbishop Ussher does not appear entitled to much consideration" in St. Ninian's early days, for example; and elsewhere in the book.
^Hardy 1862:44 "The Irish Life was written long after Ninian's death, by an author of little discretion, who wished to adjust the conduct of the Saint to the usages of his own time." in the footnote, for example.
^for example, see Bridgett, Thomas Edward (1881), “Catholicity of North-Britons”, History of the Holy Eucharist in Great Britain, I, London: C. Kegan Paul & Co, p. 55 (footnote), https://books.google.com/books?id=NdoCAAAAQAAJ&pg=PA55 — Ussher printed a manuscript of the letters of en:Alcuin, which contained a request for the intercession of Saint Ninian; however, Ussher edited the manuscript to change parts of it, and among his changes was the omission of Alcuin's request, but leaving other parts of it intact.