ニコライ・ピモネンコ
ニコライ・コルニリエヴィチ・ピモネンコ(ロシア語: Никола́й Корни́льевич Пимоне́нко、ウクライナ語: Мико́ла Корни́лович Пимоне́нко 1862年3月9日 – 1912年3月26日[1])は、近代のウクライナの画家である。風景画、風俗画を中心に700点以上の作品を残した[2]。ウクライナの風景・農村をテーマにした作品が多い。 生涯1862年、ロシア帝国キエフ県のプリオルカ(現・キーウ)に生まれた。父はイコン製作のための工房を開いており、11歳の頃から父に連れられてさまざまな町や村へ出向き、教会の絵を描くようになった[3]。 1878年、帝国美術アカデミー出身のニコライ・ムラシュコが運営する美術学校へ通うこととなった。学費を払う経済的余裕はなく、ムラシュコとイヴァン・テレシュチェンコによる支援を受けた。当初は生徒として参加したが、すぐに自分が他の生徒と比べ優れていることが分かった。このため翌年には若い生徒の指導役を任された。その2年後、試験に合格しキエフ県の学校での美術教師資格を得た。試験結果が帝国美術アカデミーへ送られ、同校への入学が許可された[3]。 1882年、帝国美術アカデミーに入学した。同時期に学んだ芸術家にはヴァレンティン・セローフ、ミハイル・ヴルーベリ、セルヒー・ヴァシリキウシキーらがいた。しかし、学費や作品制作費用を捻出するために重労働に従事し、また寒さのために体調を崩し、たびたび肺炎を患うようになった[2]。1884年に退学を余儀なくされ、キエフに戻り、ムラシュコの美術学校での指導の傍ら自身の作品制作を行った[3]。 1883年にウクライナ人の画家ウラジミール・オルロフスキーの娘と結婚した。 1900年以降、現在のキーウ国立工科大学で図法幾何学を指導した[4]。 1912年に病死した。墓所はキーウのルキヤニウカ墓地にある[2]。 作風市井や農村の人々、風景を写実的に描くスタイルは移動派の影響を受けたもので、1899年には同グループの正式な会員となった[3]。 ロシア帝国中で広く人気を博し、1904年にロシア帝国美術アカデミー会員となった[2]。 作品
脚注
参考文献
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