ドロール委員会
ドロール委員会(ドロールいいんかい)は、欧州委員会第8代委員長であるジャック・ドロールを首班とする行政体。 ドロール委員会は1985年から1988年、1989年から1992年、1993年から1994年の3期にわたった。そのため歴代欧州委員会の任期としては最長であり、また最も業績を上げたとされている。また3期続いたというのはドロール委員会のみで、ドロールも5年の委員長職の任期を2期務めた[1]。第3次委員会は1993年にマーストリヒト条約が発効し、欧州連合が発足したときの最初の委員会であった。 業績ドロールを長とする欧州委員会については、 欧州連合の歴史の中で最も成功したといえ、今後の委員会が共同体に方向性や政治的・経済的活力を与えたかという判断の際の基準となる見方がある[2]。 ドロール委員会の下で欧州統合の過程に弾みがついた。委員会は域内市場を完成させ、また単一欧州通貨の基礎を築き、経済通貨統合について、ドロール報告書[3]において3段階からなる計画を策定した。このことからドロールとほかの委員は「ユーロの父」と評されることがある。このような背景やその後の政治交渉により1986年2月に単一欧州議定書が、1992年にはマーストリヒト条約が調印され、ドロール委員会の権限は大幅に拡大された。また1985年のスペインとポルトガルの加盟、ベルリンの壁崩壊によるドイツ再統一、1995年のオーストリア、フィンランド、スウェーデン加盟と続き、ドロール委員会では東側諸国への加盟に向けた土台を造り、その後2004年にこれら諸国の加盟が実現している。 1988年、ドロールはイギリス労働組合会議で演説し、その中で社会的なヨーロッパについて触れ、これはイギリス労働党を欧州統合支持に傾かせ、逆にイギリス保守党を欧州統合懐疑主義に向かわせたという重大な影響を与えた[4]。 1992年、第2次ドロール委員会の任期満了を前にして、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンはドロール委員会の功績について次のように評し、3期目の必要性を訴えている[1]。
対照的に、1995年にドロール委員会の後を受けて発足したサンテール委員会は不正が告発されて総辞職を余儀なくされ、プローディ委員会は2004年の拡大や単一通貨の導入実施を取り仕切ったにもかかわらず、余り評価されていない。 主な出来事ドロール委員会は歴代欧州委員会の中で最も長い任期を務め、その間に欧州連合の歴史におけ数多くの出来事に立ち会ってきた。
委員3期にわたるドロール委員会はかなりの点で継承性や政治的均衡が取れていたが、3つの委員会の間で特に変化は起こらなかった。 第1次委員会第1次委員会の任期は1985年から1988年までであるが、スペインとポルトガル出身の委員が加わったのは両国が欧州諸共同体に加盟した1986年1月1日からである。
第2次委員会第2次委員会の任期は1989年から1992年までである。
第3次委員会第3次委員会の任期は1993年から1994年までで、マーストリヒト条約の発効を受け欧州連合が発足して初の委員会となる。任期が短いのは欧州議会議員の次の選挙に合わせたためである。
委員の政治傾向上記表中を色で分けているのは各委員の政治傾向を示す。それぞれ以下の通りである。
事務総長欧州委員会事務総長はデイヴィッド・ウィリアムソンがドロール委員会3期にわたって務めた。 関連項目
脚注
外部リンク
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