トレド翻訳学派(トレドほんやくがくは、英: Toledo School of Translators、西: Escuela de Traductores de Toledo)とは、12世紀から13世紀イベリア半島(スペイン)の都市トレドで行われた、書物のアラビア語からラテン語やスペイン語(カスティーリャ語)への翻訳活動、およびその翻訳者たちを指す。
12世紀から13世紀前半の歴代トレド大司教が支援した時期と、13世紀後半のアルフォンソ10世が支援した時期の、2つの時期に分けられる。
19世紀の歴史学者アマーブル・ジュールダン(英語版)により命名された。「12世紀ルネサンス」「大翻訳運動(英語版)」と重なる。
翻訳学校(トレド翻訳学校[7])、翻訳センター、トレドの翻訳者グループ、トレードの翻訳グループ、トレードの翻訳学派、トレド学派などともいう。
背景
前史
中世イベリア半島は、キリスト教国の西ゴート王国の支配の後、イスラム諸王朝の支配(アルアンダルス)を経て、キリスト教国のカスティーリャ王国などに再征服(レコンキスタ)された。
中世イスラム世界は、バグダードの「知恵の館」に象徴されるように、哲学・医学・数学・光学・天文学・占星術・錬金術(化学)などの学術が発達していた(イスラム黄金時代・イスラム科学)。その中で、アリストテレス・エウクレイデス・ガレノス・プトレマイオスといったギリシア古典のアラビア語訳注(英語版)も作られていた[注釈 1]。イベリア半島では後ウマイヤ朝のハカム2世以来、コルドバがバグダードと並ぶ学術都市として栄えていた。
半島中央の都市トレドは、西ゴート時代に首都および大司教座都市(トレド大司教座(英語版))となり、イスラム時代になっても主要都市として栄えていた。1031年、後ウマイヤ朝が滅びタイファ(群小王朝)時代になると、トレド王国(ズンヌーン朝(英語版))のマームーン(英語版)王[注釈 2]の治下で、トレドはコルドバと並ぶ学術都市となった。学者のザルカーリーやサーイド・アンダルスィー(英語版)[注釈 3]がトレドで活動し、図書館は書物で満たされた[注釈 4]。
1085年、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世が、外交交渉により無血入城でトレドを再征服(英語版)した[注釈 5]。再征服後、トレドは同国の首都および大司教座都市となり[注釈 6]、イスラムの学術に関心や対抗心をもつ知識人がヨーロッパ各地から集まり、翻訳の拠点となった。
翻訳はトレドだけでなく、セビリャなどの他都市や[注釈 7]、ピレネー山脈を隔てた南フランス、イタリア[注釈 8]、シチリア[注釈 9]などでも行われた(12世紀ルネサンス・大翻訳運動(英語版))。同時代には十字軍国家もあったが、同地での翻訳は少なかった。翻訳行為自体は12世紀より前からあり、例えばギリシア古典は6世紀のボエティウス、アラビア医学書は11世紀のコンスタンティヌス・アフリカヌスが既に訳していた。
「三宗教の共存」か
イスラム諸王朝は異教徒(ズィンミー)を容認していたため[注釈 10]、再征服直後のトレドには、征服側のカトリック教徒だけでなく、アラブ化(英語版)したキリスト教徒(モサラベ)や、ユダヤ教徒(セファルディム)、残留イスラム教徒(ムデハル(英語版))が共存していた。中世後期には、モサラベの同化やユダヤ教徒とイスラム教徒の強制改宗(コンベルソ、モリスコ)が多くなるが、トレド翻訳学派の時代には、共存がまだ続いていた。
このことから、トレド翻訳学派は「三宗教の共存」のおかげで生まれた、としばしば説明される。しかしこれには異論もある。というのも、モサラベとユダヤ教徒が翻訳に協力したのに比べ、イスラム教徒の協力は少なかった。また、再征服時の協定ではトレドの大モスクの保護が約束されていたが、再征服後、約束に反して大聖堂に改修され、イスラム教徒の多くはトレドを去った[注釈 11]。
翻訳方式
上記のモサラベやユダヤ教徒は、アラビア語とカスティーリャ語の双方を解した。彼らの役割は、書物をアラビア語からラテン語に訳す際に、仲介となるカスティーリャ語訳を作ることだった。すなわち、彼らがアラビア語の書物をカスティーリャ語に訳して口述し、カトリック教徒の翻訳者がそのカスティーリャ語をラテン語に訳して筆記する、という重訳方式がとられた[注釈 12]。
訳文は、6世紀のボエティウス以来の伝統である逐語訳が多かった。
歴史
前期
12世紀から13世紀前半、トレド大司教ライムンド(英語版)[注釈 13]、ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダら、歴代トレド大司教の後援のもと、以下の翻訳者が活動した[注釈 14]。
最初の翻訳は、セビリャのフアン(英語版)[注釈 15]がライムンドに献呈したクスター・イブン・ルーカー『霊と魂との相違論』の訳だった[注釈 16]。フアンはドミンゴ・グンディサルボ(英語版)[注釈 17]とともに、アリストテレス『霊魂論』、イブン・スィーナー『治癒の書』、イブン・ガビロール『生命の泉』などを共訳した。また、フアンは偽アリストテレス(英語版)『秘中の秘(英語版)』、ドミンゴはファーラービーやガザーリーの哲学書も訳した。
クレモナのジェラルド[注釈 18]は トレド最大の翻訳者であり、70点以上の書物を訳した。その分野は多岐にわたり、天文学ではプトレマイオス『アルマゲスト』、ザルカーリー『トレド天文表(英語版)』、ファルガーニー『天文学集成』、数学ではエウクレイデス『原論』、テオドシウス『球面学』、フワーリズミーの代数学書、論理学や哲学ではアリストテレス『分析論後書』『天体論』、『原因論』、ファーラービーやキンディーの著作、医学ではヒポクラテス・ガレノス・アル・ラーズィーの著作、イブン・スィーナー『医学典範』、その他、イブン・ハイサム『光学』、錬金術書、土占いなどの占術書を訳した。
マイケル・スコット[注釈 19]は、青年期にトレドで翻訳に従事し、老年期にフリードリヒ2世治下のシチリア王国で翻訳を指揮した。彼は生涯を通じて、ビトルージーの天文学書、イブン・ルシュドの哲学書、アリストテレス『動物誌』(動物の書(英語版))などを訳した。
ケットンのロバート(英語版)[注釈 20]、カリンティアのヘルマン(英語版)[注釈 21]らは、クリュニー修道院長の尊者ピエール(英語版)[注釈 22]の依頼により、最初の『コーラン』ラテン語訳(英語版)を含むイスラム教論駁書『トレド集成(英語版)』を作った。
チェスターのロバート[注釈 23]は、フワーリズミーの代数学書などを訳した。チェスターのロバートは上記「ケットンのロバート」と同一視される場合もある。
以上に加え、トレドのマルコス(英語版)[注釈 24]、トレドのペドロ(英語版)、ブリュージュのルドルフ(英語版)、シャレスヒルのアルフレッド(英語版)[注釈 25]、ドイツ人のヘルマン(英語版)[注釈 26]、モーリーのダニエル(英語版)、その他多くの人々がトレドで活動した。
後期
13世紀後半には、ラテン語でなくカスティーリャ語への翻訳が主眼に置かれた[注釈 27]。これにより、トレドのラテン世界に対する影響力は衰えたが、カスティーリャ語の地位向上に繋がった。
その中心にいたのが「賢王」「三宗教の王」の異名をもつアルフォンソ10世だった。10世は、学術だけでなく文芸・娯楽に対しても、カスティーリャ語による著述・翻訳を奨励した。10世自身も、インド由来の寓話集『カリーラとディムナの書』や、娯楽書『チェス・サイコロ・盤の書(英語版)』[注釈 28]の翻訳に携わった。
10世の時代には天文学が特に研究され、上記の『トレド天文表(英語版)』を改良した『アルフォンソ天文表』や、アラビア語の天文書のカスティーリャ語訳が作られた。また、占星術書『ピカトリクス』の訳や、ユダヤ教徒の宮廷侍医イェフダ・ベン・モーシェ(英語版)が10世名義で書いた占星術書『貴石誌(スペイン語版)』も作られた[注釈 29]。
10世の時代の他の翻訳者に、ラビ・サグ(英語版)、サムエル・ハ・レヴィ(英語版)、トレドのアブラハム(英語版)、イサク・イブン・シッド(英語版)、その他多くの人々がいる。『階梯の書』(ミーラージュ)のカスティーリャ語訳も作られた。
受容
トレドの訳書はヨーロッパ各地に伝播し、ロジャー・ベーコンらに受容された。
アラビア語の医学書は、11世紀イタリアのコンスタンティヌス・アフリカヌスにより既に訳されていたが、『医学典範』はクレモナのジェラルドによって初めて訳され、18世紀まで医学の教科書として読まれ続けた。
アラビア語由来の英単語(英語版)である「アルゴリズム」は、上記のチェスターのロバートの訳語に由来する。アラビア数字(十進記数法、ゼロの概念)の伝播にも寄与したが、普及させたのは13世紀イタリアのフィボナッチ『算盤の書』だった。
アリストテレスの著作は、6世紀のボエティウスや12世紀ヴェネツィアのジャコモ(英語版)により既にギリシア語から訳されていたが、トレドでアラビア語のアリストテレス註解(英語版)とともに多く訳され、中世哲学におけるアリストテレス主義の興隆に寄与した。しかし13世紀末には、ムールベーケのギヨーム(トマス・アクィナスの友人)によるギリシア語からの訳に取って代わられた。
『階梯の書』(ミーラージュ)は、カスティーリャ語に訳された後に他言語にも訳され、ダンテ『神曲』に影響を与えた。
『アルフォンソ天文表』はヨーロッパ各地でルネサンス期まで使われ続けた。
19世紀フランスの歴史学者ジュールダン(英語版)(ジェルダン)は、トレドに翻訳者養成のための学院があったと仮定し、「翻訳学校」「翻訳学派」の概念を提唱した。学院が実在したかは定かでないが、現代でもこの概念が使われている。主な研究者にサートン(英語版)、ハスキンズ(英語版)、ソーンダイク(英語版)、カーモディ(ドイツ語版)、リンドバーグ(英語版)、バリクロサ(スペイン語版)、ダルヴェルニー(英語版)、ベルネ(英語版)、リエト(フランス語版)、バーネット(ドイツ語版)、ジャッカール(フランス語版)、ルメイ(wikidata)、パレンシア(スペイン語版)、ピム(英語版)らがいる。
20世紀末、トレドの翻訳学校にあやかった翻訳者の養成施設が、ヨーロッパ各地に作られた[注釈 30]。
脚注
注釈
- ^ 主なアラビア語訳者にフナイン、ハッジャージュ、クッラらがいる。アラビア語の前にシリア語やヘブライ語に訳されている場合も多かった。
- ^ 「マームーン」または「アル・マアムーン」。「知恵の館」の創設者である同名の王にあやかった名前。
- ^ 「ザルカーリー」または「アル・ザルカーラー」、「サーイド・アンダルスィー」または「サイード・アル・アンダルーシー」。
- ^ ただし、1085年の再征服時、上層ムスリムの多くが書物とともにトレドを去ったため、学術都市としての連続性は低いとも言われる。
- ^ 交渉は、マームーンの次代王であるカーディル(英語版)との間で行われた。トレドを譲渡する条件として、当時失政によりトレドを追放されていたカーディルの復位の支援や、カーディルのバレンシア支配の承認、住民の保護、後述の大モスクの保護、などがあった。1081年からトレドの包囲が行われていたが、これは市内の宥和派が手引きした形式的な包囲だった。
- ^ 中世カスティーリャ王国は頻繁に遷都したため、トレドが常に首都だったわけではない。
- ^ セビリャは1248年に再征服された後、後述のアルフォンソ10世により、トレドと並ぶ学術都市となった。半島各地では、バースのアデラード、ペトルス・アルフォンシ(英語版)、ティヴォリのプラトン、サンタリャのフーゴー(英語版)、サバソルダ(アブラハム・バル・キイア)、アブラハム・ベン・エズラらが活動した。
- ^ アリストテレスをアラビア語を介さずに訳したヴェネツィアのジャコモ(英語版)やピサのブルグンディオ(英語版)が活動した。
- ^ フリードリヒ2世治下のシチリア王国で、後述のマイケル・スコットや、ヘンリクス・アリスティップス(英語版)らが活動した。
- ^ ただし、重い人頭税(ジズヤ)を課される「二級市民」のような扱いであり、イスラム教への改宗者(ムワッラド)も多くいた。また、トレド陥落後に半島に進出したムラービト朝やムワッヒド朝は、領内の異教徒を迫害した。トレドにはその迫害から逃れて来た人々もいた。
- ^ 改修の中心人物は、初代トレド大司教となったクリュニー会士セディラックのベルナール(英語版)と、クリュニー会士の縁者でもある王妃コンスタンスの2名であり、6世不在の間に改修した。6世はこれに激怒したが、内乱を避けるためやむを得ず承認した。ただし、改修した人物は6世だと伝える史料もあり、真相は定かでない。
- ^ 例えば、後述のクレモナのジェラルドは、モサラベのガリップス(Galippus)なる人物、マイケル・スコットは、ユダヤ教徒のアンドレアスやアブラハムの協力を受けたとされる。後述の『トレド集成(英語版)』は、イスラム教徒のムハンマドの協力を受けたとされる。後述のイェフダ・ベン・モーシェ(英語版)らのように、ユダヤ教徒やモサラベ自身が翻訳者となる場合もあった。カスティーリャ語でなくカタルーニャ語など他のロマンス語またはヘブライ語・口語アラビア語を介する場合や、直接ラテン語に訳す場合もあった。以上の翻訳方式については、史料が乏しく推測による部分が大きい。
- ^ 「トレド大司教ライムンド」または「大司教ライムンド」「大司教ライムンドゥス」「トレド大司教ライムンドゥス」「ラ・ソーヴタのライムンドゥス」。ライムンドへの献呈書と伝えられる訳書は多く、ライムンドが翻訳学派の創始者である、としばしば説明される。しかし、その多くは誤伝であるとする説もある(ダルヴェルニー(英語版)の説)。
- ^ 翻訳者の大半は素性が曖昧であり、名前の表記揺れも激しい。多くは聖堂参事会(英語版)に属する聖職者だった。
- ^ 「セビリャのフアン」または「ヨハンネス・ヒスパレンシス」「ヨハンネス・ヒスパヌス」「スペインのヨハンネス」「イスパニアのヨハネス」「フアン・イスパレンセ」「セビーリャのヨハンネス」「セビリャのヨハネス」。彼は「アブラハム・イブン・ダウド(英語版)」「イブン・ダーウード」または「フアン・アヴェンデウト」「アヴェンデウト」「アヴェンデウチ」と同一視される場合もある。
- ^ 『霊と魂との相違論』(ラテン語: De Differentia Spiritus et Animae)は、哲学・神学・医学に関わる霊魂論の書物。
- ^ 「ドミンゴ・グンディサルボ」または「ドミニクス・グンディサリヌス」「ドミンゴ・グンディサルヴォ」「ドミンゴ・グアンディサルビ」「ドミニクス・ゴンディサルビ」。
- ^ 「クレモナのジェラルド」または「クレモナのゲラルドゥス」「クレモナのゲラルド」「クレモナのヘラルド」「ヘラルド・デ・クレモナ」。
- ^ 「マイケル・スコット」または「ミカエル・スコトゥス」。
- ^ 「ケットンのロバート」または「ケットンのロベルトゥス」「ロベルト・デ・ケットン」。
- ^ 「カリンティアのヘルマン」または「カリンティアのヘルマヌス」「ケルンテンのヘルマンヌス」「ダルマチアのヘルマン」「ヘルマン・エル・ダルマタ」。
- ^ 「尊者ピエール」または「尊者ペトルス」「ペトルス・ウェネラビリス」。
- ^ 「チェスターのロバート」または「チェスターのロベルトゥス」。
- ^ 「トレドのマルコス」または「マルコス・デ・トレド」「トレドの参事会員マルコ」「トレドの司教座聖堂参事会員マルコス」
- ^ 「シャレスヒルのアルフレッド」または「シェアシルのアルフレドゥス」「サレシェルのアルフレドゥス」「イングランド人アルフレドゥス」。
- ^ 「ドイツ人のヘルマン」または「ヘルマン・エル・アレマン」「ドイツ人ヘルマヌス」「ヘルマヌス・アレマンヌス」。
- ^ カスティーリャ語訳に付随する形で、ラテン語訳も引き続き行われた。
- ^ 『チェス・サイコロ・盤の書』または『チェス、賽子、双六の書』『チェス、サイコロ、遊戯盤の書』。
- ^ 「イェフダ・ベン・モーシェ」または「イェフダ・モスカ」「ユダ・イブン・モーセス・アル・コーエン」、『貴石誌』または『宝石論』『ラピダリオ』。
- ^ スペイン・タラソナの「翻訳家の家」(Casa del Traductor)、ドイツの「コレギウム」(Europäisches Übersetzer-Kollegium)など。
出典
参考文献
関連項目