トルステン・フィンク
トルステン・フィンク(ドイツ語: Thorsten Fink, 1967年10月29日 - )はドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州ドルトムント出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)。 選手経歴地元クラブのSVローランド・マルテンでサッカーを始め、16歳でドイツ・ブンデスリーガに属するボルシア・ドルトムントの育成アカデミーに入った。18歳でプロ契約を結びセカンドチームでもプレーしたもののトップチームでのプレーは無かった。 SGヴァッテンシャイト21歳で当時ドイツ・ブンデスリーガ2部に属していたSGヴァッテンシャイトに移籍。同クラブでは主力のボランチとして活躍し、125試合に出場。ドイツ・ブンデスリーガへの昇格を果たした。現在[いつ?]でも同クラブのドイツ・ブンデスリーガ1部最多出場記録を保持している。 カールスルーエSC1994年夏、同じく当時ドイツ・ブンデスリーガ1部に属していたカールスルーエSCに移籍。同クラブではリーグ戦の他にもDFBポカールやUEFAカップにも出場し、公式戦120試合で19得点7アシストを記録した[1]。 FCバイエルン・ミュンヘン1997年7月、同僚のミヒャエル・タルナトと共にFCバイエルン・ミュンヘンに移籍した。ちなみに1991年から1997年までは例年のようにオリヴァー・カーン、オリヴァー・クロイツァー、メーメット・ショル、ミヒャエル・シュテルンコプフとカールスルーエSCの主力選手がFCバイエルン・ミュンヘンに移籍していたが、フィンクの移籍以降今日までこの流れで移籍した選手はいない[2]。 FCバイエルン・ミュンヘンではジョバンニ・トラパットーニ監督及びオットマー・ヒッツフェルト監督の信頼を勝ち取り、7シーズンに亘って主力の守備的ミッドフィルダーとしてシュテファン・エッフェンベルク、カルステン・ヤンカー、エウベル、ハサン・サリハミジッチ、アレクサンダー・ツィックラー、バスティアン・シュヴァインシュタイガーらで構成される攻撃陣を中盤の底から支えた。 リーグ戦の他にもDFBポカールやUEFAチャンピオンズリーグを含めた公式戦236試合に出場し9得点11アシストを記録[3]。トヨタカップやUEFAチャンピオンズリーグで優勝を果たした他、ドイツ・ブンデスリーガ優勝4回、DFBポカール優勝3回、DFBリーガポカール優勝5回と輝かしい実績を残した。 2003-04シーズンより当時ドイツ3部にあたったドイツ・レギオナルリーガに属していた同クラブのセカンドチームに所属。基本若手選手のみから構成されるチームで若手をリードする経験豊富なキャプテンとして3シーズンに亘ってプレー。公式戦90試合に出場した。 膝の怪我の影響もあり、2006年7月に現役を引退した。 監督経歴FCレッドブル・ザルツブルク2006年9月、オーストリア・ブンデスリーガに属するFCレッドブル・ザルツブルクで当時スポーツディレクターを勤めていたオリヴァー・クロイツァーに誘われ、同クラブのセカンドチームに当たるFCレッドブル・ザルツブルク・ジュニアーズの監督に就任。オーストリア3部にあたるオーストリア・レギオナルリーガ西部 で優勝し、オーストリア・ブンデスリーガ2部への昇格を果たした。同クラブ在籍2年目になる2007-08シーズンはジョバンニ・トラパットーニ監督の下トップチームのコーチを務めた。 FCインゴルシュタット042008年1月、当時ドイツ3部にあたるドイツ・レギオナルリーガに属していたFCインゴルシュタット04の監督に就任。同クラブの歴史上初となるリーグ準優勝とドイツ・ブンデスリーガ2部への昇格を果たした。 FCバーゼル2009年7月、スイス・スーパーリーグのFCバーゼルの監督に就任。同リーグでの2連覇を果たし、2009-10シーズンではスイス・カップでも優勝した。2009-10シーズンにはリーグ戦36試合で90得点を記録し、スイス・スーパーリーグの最多得点記録を更新した。 2009-10シーズンにはUEFAヨーロッパリーグ本大会、2010-11シーズンと2011-12年シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ本大会出場を果たし、ASローマ等を破りマンチェスター・ユナイテッドとはグループリーグで引き分けた。 ハンブルガーSV2011年10月17日、ドイツ・ブンデスリーガに属するハンブルガーSVの監督に就任した。FCバーゼルとの契約が残っていたが、ハンブルガーSVが違約金を支払うことでフィンクの監督就任を実現させた。監督就任当時、ハンブルガーSVはリーグ最下位の位置にあったが、シーズン中での建て直しに成功し1部残留を達成した。 2012-13シーズンでは最終節にUEFAヨーロッパリーグ出場権を逃したものの、最終順位を7位に引き上げた。 APOELニコシア2015年1月、ファーストディビジョンのAPOELニコシアの監督に就任。リーグ戦では首位、カップ戦では決勝に進んだものの、リーグ優勝が決まる直前に解任された。その数日後にチームはリーグ及びカップ戦で優勝した。 FKアウストリア・ウィーン2015年7月、オーストリア・ブンデスリーガのFKアウストリア・ウィーンの監督に就任。2015-16シーズンではリーグ3位、2016-17シーズンでは準優勝を果たした。 2016-17シーズン及び2017-18シーズンでは2年連続でUEFAヨーロッパリーグの最終予選を突破し本大会のグループリーグに出場。AFCアストラ・ジュルジュ、HNKリエカ、ローゼンボリBKらを相手に勝利を収め、ASローマとはグループリーグで引き分けた[4]。 ヴィッセル神戸2017年の秋、FIFAランキングで初めてトップ10入りを果たしたオーストリア代表のマルセル・コラー監督の後任者としてオーストリアサッカー協会技術委員会からオーストリア代表監督就任を依頼されたが、当時契約を結んでいたFKアウストリア・ウィーンの経営陣が高額な契約違約金を望んだことが影響して就任に到らなかった[5][6][7]。 2019年6月8日、ヴィッセル神戸の監督に就任すると発表された[8]。就任時の13位から8位にまでリーグ戦での順位を浮上させ、天皇杯ではチームを優勝に導き、クラブ初のタイトルをもたらした。2020年のFUJI XEROX SUPER CUPでは横浜F・マリノス相手にPK戦を制し優勝を果たした(詳細はFUJI XEROX SUPER CUP2020#試合結果を参照)。 AFCチャンピオンズリーグでチームを率いたヴィッセル神戸初の監督となった。 2020年9月21日、家庭の事情で監督を辞任することを発表した[9]。 リガFC2021年夏にはドイツ・ブンデスリーガ1部に属する1.FCケルンの監督候補になり、スポーツディレクターとの具体的な交渉の結果一度は合意に達したものの[10]、数週間後にそれまでの交渉相手であったスポーツディレクターが解任され[11]、クラブ首脳陣が新しいスポーツディレクターと共に別の監督を選択したことが大々的にドイツのメディアで報道された[12][13][14]。 2022年1月4日、ラトビア・ヴィルスリーガのリガFCの監督に就任すると発表された。同クラブの監督職のみではなく、ロシア国籍の会長兼オーナーがラトビア、ロシア、ギリシャ、キプロスで経営する計4クラブの統括ディレクターも兼ねたオファーであった[15][16]。平均勝ち点1,92でリーグ順位表2位の好結果を残していたが、2022年ロシアのウクライナ侵攻の影響でロシア国籍の会長が資金を提供できなくなり、チームの経営も厳しくなった。 アル・ナスルSC2022年4月、再びオーストリア代表監督の次期候補になりオーストリアサッカー協会のペーター・シェッテルスポーツディレクターとの交渉に入ったが、最終的には丁度このタイミングでフリーになったマンチェスター・ユナイテッドFC監督のラルフ・ラングニックが新たな代表監督に就任した[17][18]。 2022年5月19日、アラビアン・ガルフ・リーグに属するアル・ナスルSCの監督に就任した。これまで所属していたリガFCに対してアル・ナスルSCが「ラトビアのサッカー界の歴史に残る記録的な契約違約金」を支払ったことにより実現した監督就任、と報道された[19]。 シント=トロイデンVV2023年前任のBernd Hollerbachの任期満了に伴い指揮を執ることが発表された。自身の就任に伴い「豊かな歴史を持ち、熱狂的なファンがいるSTVVの監督に就任することができてワクワクしています。クラブ創設100周年を迎えるシーズンを特別なものにするため、コーチ、選手と共に良いシーズンを過ごせるように全力を尽くします。」と語っている。[20] 人物
タイトル選手時代
指導者時代
監督成績
脚注
外部リンク
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