トルコ国鉄
トルコ国鉄(トルコこくてつ、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti Devlet Demiryolları, TCDD)は、トルコの公共鉄道システムを運営する国営鉄道である。1927年に創立され、オスマン帝国崩壊後トルコ共和国内に残された私営の会社により運営されていた鉄道の運行を引き継いだ。 総延長10991kmを超える鉄道路線を運営し、インターレイルパスの一員となっている。 国内外の発着を含め、トルコ国鉄はトルコ全体の鉄道運営者として、すべての旅客・貨物・郊外鉄道を運営する。以前はトラキアとアナトリア、2つの鉄道網はイスタンブールのボスポラス鉄道フェリーを利用してのみ接続されていたが、マルマライ(ボスポラス海峡の海底鉄道トンネル)の開通により地下鉄での接続が可能になった。 運行![]() 国際的な接続ヨーロッパ方面
コーカサス方面1936年から、イスタンブール=カルス間1,944kmを約32時間かけて結ぶ寝台急行列車が運行されていたがアンカラ=イスタンブール間の高速鉄道の開業に伴い Doğu Ekspresi の運行区間はアンカラ=カルス間に変更されている。 中東方面
郊外鉄道トルコには、イスタンブールに2つ、アンカラに1つ、イズミルに1つ、計4系統のトルコ国鉄が運営するコミューターサービスが存在する。すべての系統で、E8000系電車またはE14000系電車、あるいはその両方が使用されている。最短15分間隔で運行されているが、各都市の他の都市鉄道システムとはそれほどよく連携している訳ではない。 歴史オスマン帝国時代トルコの鉄道の歴史は1856年にさかのぼる。トルコにおける最初の鉄道線は、イギリスの会社に任せられた 130km のイズミル - アイドゥン線であった。この区間が選ばれたのは偶然ではなく、イズミル - アイドゥン間の路線に商業上の高い潜在性が認められたためである。また、別の理由としては、イギリスの産業に必要な原材料がこの地域にあったことが挙げられる。この地域は中東をコントロールするために地政学上重要だったこともあり、イギリスが最初に鉄道敷設の免許を受けたのに続いて、フランスとドイツがその影響力が行使されるそれぞれ異なった場所で鉄道の建設を始めた。これらの国々は自国の産業のために必要な、オスマン帝国から購入した物資をできるだけ速く港へ運ぼうとした。鉄道は、この目的にとってできるだけ効率的になるように建設され、戦略的に、例えば鉱山の約 20km 以内に建設された。そのためトルコにおける鉄道は、それら外国の政策に従って敷設された。 1856年から1922年にかけて以下の路線がオスマン帝国の領内で建設された。
計 9,919km トルコで共和国の建国宣言後、国内には外国の会社により建設された鉄道路線の4,000kmだけが残された。より具体的に言うと、新生トルコ共和国がオスマン帝国から継承したのは、外国の会社が所有していた2,282km の標準軌線と 70km の狭軌線、そしてオスマン帝国自らが所有し運営していた1,378km の標準軌線であった。 共和国建国後1923年から1950年まで共和国成立前、鉄道路線は外国の会社の利益のために建設が宣言されていたが、共和国の成立後は、自国のための鉄道路線が建設された。これは鉄や石炭などを基礎とした1932年から1936年までの間に公表された工業化計画に明確に見ることができる。これらの鉱石などを輸送する最も安価で最も効率的な方法が鉄道建設であった。この間交通に関する財政上の資産は鉄道に向けられた。 期間が短かったため鉄道建設はハイスピードで続けられた。第二次世界大戦の間は建設のスピードが低下した。1923年から1950年までの間に3,578kmが建設されたが、そのうちの3,208kmは1940年以前に完成した。 そうした頃に鉄道は国民経済計画に組み込まれた。鉄道建設の目的は以下のように表明されている。
これらの目的を達成するため、鉄道政策は2段階に集約された。
1935年から1945年の間にそれらの鉄道が結ばれ、それらが結合されたことにより環状部分が形成され、例えばアンカラ - ディヤルバクル間の距離は1,324kmから1,116kmへ短縮された。 1950年以降オスマン帝国より残された道路網は、全長13,885kmの荒廃した道路と全長4,450kmのそうでない道路、計18,335kmの道路と94の橋であった。1950年まで道路網は鉄道網を助けるものとして見られていた。しかし、マーシャルプランにより鉄道網を強化する代わりに自動車道が広げられた。 1960年以降でさえ鉄道の延伸を目的とする対象は存在したものの、財政上の資産のほとんどは道路に振り向けられた。これらの政策のため、1950年から1980年までの間、鉄道は年平均で30kmしか建設されなかった。 1980年代半ば、トルコにおけるモータリゼーションはアウトバーンの建設で始まった。アウトバーンプロジェクトは南東アナトリアプロジェクト (GAP)と観光事業プロジェクトの次の第3の巨大プロジェクトであった。これらのプロジェクトのために、1990年代半ばまでに約20億USDが投資された。この間鉄道への投資はなされず、何の計画も開始されなかった。ほとんどの鉄道(それらのほとんどは建設後50年以上経過していた)はどうにもならないかのような不運が残されていた。 トルコでは、物資の94%は道路で運ばれ、鉄道では4%しか運ばれていない。物資輸送の鉄道シェアは50年間で60%減少した。 電化トルコは伝統的な25 kV、50 Hzの交流電化を選択した。トルコ国内で最初に電化されたのは、1955年12月4日で、イスタンブールのヨーロッパ側の郊外路線のシルケジ - ソウックス間であった。同時に、E8000系電車の使用が開始された。イスタンブールのアジア側の郊外路線では、1969年にハイダルパシャ - ゲブゼ間が電化された。アンカラの郊外路線では1972年にスィンジャン(en:Sincan) - カヤシュ(Kayaş) 間が電化された。 1977年2月6日には、ゲブゼ - アダパザル間が複線電化され、電力で走る編成が幹線で運行されるようになった。1989年には更にアダパザルの付近のアリフィエとエスキシェヒールの間が、1993年にはシンジャンまで電化され、イスタンブール - アンカラ間で電化区間が繋がった。1994年には、イスタンブールからエディルネ - カプクレ(ブルガリア国境)間のヨーロッパ線も電化された。同年、中部のディヴリーイ (en:Divriği) - イスケンデルン(en:Iskenderun)間が他の電化ネットワークとは孤立した形で電化された。2006年にはイズミルの郊外路線も電化された。 マルマライ→詳細は「マルマライ」を参照
マルマライはボスポラス海峡の下でイスタンブールのヨーロッパ側とアジア側を鉄道路線で接続する地下トンネルシステムである。2004年5月24日に着工したが、工事現場から遺物が多く出土し完成予定は延び延びになっていた。2013年8月4日、試験運転が行われ[2]、トルコ共和国宣言記念日の同年10月29日に開業した[3]。開業すると中東とアジアの鉄道網がヨーロッパの鉄道網に接続される。さらに、市内交通における重要な役割も持ち、多くの人々が住んでいるイスタンブール都市圏の東西の鉄道路線を形成することになっている。公共交通における鉄道利用が3.6%から27.7%に上昇することにより、公共交通問題を軽減させることが見込まれている。そのように上昇すれば、公共輸送機関の利用に関してイスタンブールは東京 (60%) 、ニューヨーク (31%) に次いで世界第3位になるとされている。 鉄道建設の年表トルコ国鉄の沿革について以下に記載する[4]。 共和国建国前現在も運行中
廃止された狭軌路線
進行中の計画高速化計画→詳細は「トルコ高速鉄道」を参照
![]() アンカラ・イスタンブール高速線エスキシェヒール経由でアンカラとイスタンブールを結ぶトルコ最初の高速鉄道である。イスタンブールからアンカラへは約3時間(最高速度 250km/h)で到着する。この区間用の車両はスペインのCAFに発注している。 アンカラ・コンヤ高速線この新線はポラトル(en:Polatlı)でアンカラ・イスタンブール高速線と接続し、アンカラ - コンヤ間を70分に短縮する予定である。アンカラ・イスタンブール高速線と同種の車両が使用される。 将来の構想路線
参考隣接国との鉄道接続状況脚注
外部リンク
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