トニー・ウィリアムス
トニー・ウィリアムス(Tony Williams、1945年12月12日 - 1997年2月23日)は、アメリカ合衆国のジャズ、ジャズ・ロック・ミュージシャン、ドラム奏者、作曲家。 来歴イリノイ州シカゴ生まれ。11歳のときドラム奏者のアラン・ドーソンのもとで音楽を学び、13歳からボストンの「コノリー」において音楽活動を開始し、ジョニー・ハモンド・スミスやサム・リヴァースと共に活動していた。 1962年11月、16歳のときジャッキー・マクリーンにスカウトされて、ニューヨークに移った。翌1963年にはマイルス・デイヴィス・グループのメンバーに抜擢され、所謂「黄金のクインテット」[1]のメンバーとして、1969年まで在籍した[2]。 ロックへの傾倒からジョン・マクラフリン、ラリー・ヤングとトリオ「トニー・ウィリアムス・ライフタイム」を結成して同年『エマージェンシー!』を発表。1970年にはジャック・ブルースを迎えて4人編成で『ターン・イット・オーバー』を発表した[3]。1975年にはアラン・ホールズワース、アラン・パスクァ、トニー・ニュートンと「ニュー・トニー・ウィリアムス・ライフタイム」を結成した。 1975年春、ハンク・ジョーンズ、ロン・カーターと共に「グレート・ジャズ・トリオ」を結成してニューヨークの「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出演した。その直後にトニーに代わってグラディ・テイトが参加したアルバム『ハンキー・パンキー』が録音されたが、渡辺貞夫との共演盤『アイム・オールド・ファッション』(1976年)を機にトニーが復帰し、その後も存続した[4]。 渡辺貞夫以外の日本のミュージシャンとの共演としては、日野皓正のアルバム『メイ・ダンス』(1977年)、本田竹広のアルバム『アナザー・ディパーチャー』(1977年)への参加もあげられる。 1976年、ハービー・ハンコックらのグループ「V.S.O.P.クインテット」に参加して人気を博した。1979年、ハバナ・ジャム (Havana Jam) 出演に際して、ジョン・マクラフリン、ジャコ・パストリアスと共に「トリオ・オブ・ドゥーム」を結成し、スタジオとライブで共演した[5]。他の共演者として、スタン・ゲッツ、ソニー・スティット、ドン・プーレン、ミシェル・ペトルチアーニ、セシル・テイラーらがいた。 1985年、復活したブルーノート・レーベルに復帰し、アルバム『フォーリン・イントリーグ』を録音した。その後、マルグリュー・ミラーらとレギュラー・クインテットを結成し、殆ど自作曲ばかりを収録した一連のアルバムを残した[6]。 1995年、デレク・ベイリー、ビル・ラズウェルとトリオ「アルカナ」を結成した。 サンフランシスコに住み、1997年、胆嚢の手術の後の心臓発作により51歳で死去した[7][8]。最後の録音はビル・ラズウェルらとの「ラスト・ウェイヴ」だった[9]。 ドラミングマックス・ローチなどの正統派スタイルからスタートしているが、1960年代中期にはフリー・ジャズ、1970年前後にはロックの影響を受けてスタイルが変化している。 高速の4ビートを得意としており、彼の加入以降、マイルス・デイヴィス・グループでは同じ曲でも年を追うごとにテンポが早くなっていくのがよくわかる。マイルスは自伝で、彼のスピードにマイルスが対抗する形でどんどんテンポ設定が早くなっていったと語っている。またマイルスは、彼は加入当初から2拍4拍でハイハットを踏まなかったので、きちんと踏めと口うるさく言ったとも語っている。 1970年代には、逆にすべての拍でハイハットを踏むようになったが、これらのスタイルはその後、他のドラマーに確実に影響を与えた[要出典]。 ディスコグラフィリーダー・アルバム
コンピレーション・アルバム
ザ・グレイト・ジャズ・トリオ→詳細は「グレイト・ジャズ・トリオ § ディスコグラフィ」を参照
(ハンク・ジョーンズ、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス)
トリオ・オブ・ドゥーム(ジョン・マクラフリン、ジャコ・パストリアス、トニー・ウィリアムス)
アルカナ(ビル・ラズウェル、トニー・ウィリアムス、デレク・ベイリー)
脚注
参考文献
外部リンク |