ディエゴ・フゼール
ディエゴ・フゼール(Diego Fuser、1968年11月11日 - )は、イタリア出身の元サッカー選手。サッカー指導者。元イタリア代表。 経歴トリノの下部組織を経て、1986年にトップチームへと昇格した。10月1日に、UEFAカップ1回戦ナント戦の第2戦でプロデビュー。1987年4月26日のユヴェントス戦で、後半から出場し、セリエAデビューを果たした[1]。1987-88シーズンに、リーグ戦16試合、コッパ・イタリア10試合で起用されるなど、出場機会を増やしたが、プレースタイルに対しての批判も受けた[1]。1988-89シーズンには、レギュラーを掴み、リーグ戦30試合でプレーした[1]。 1989-90シーズン、ACミランへと移籍、アリゴ・サッキ監督からは、主にロベルト・ドナドーニやアンジェロ・コロンボらの控え選手として起用されたが、インサイドハーフのポジションで起用されることもあった[1]。1989年11月19日のミラノダービーで移籍後初得点を決めた[1]。いくつかのポジションをこなせる柔軟性があったことも幸いし、このシーズンのリーグ戦、20試合に起用された[1]。また、1989トヨタカップでも先発でプレーして優勝を果たした[1]。 1990-91シーズン、フィオレンティーナにレンタルされ、8ゴールを挙げるなどの活躍を見せた[1]。1991-92シーズン、ミランへ複帰、このシーズンのリーグ戦15試合に出場し4ゴール(クレモネーゼ、トリノ、ラツィオ戦などでゴール[2][3])。また、29節のミラノダービーでは、クロスでダニエレ・マッサーロ決勝点をアシストするなど[4]、スクデット獲得に貢献した[1]。しかし、より多くの出場機会を求め、移籍を選んだ[1]。 1992-93シーズンにラツィオに移籍、リーグ戦33試合で10ゴールを記録するなど、キャリア最高のシーズンを過ごした[1]。また、このシーズンにはイタリア代表にもデビューした。1994-95シーズン、32試合で5得点を決めるなど。良いパフォーマンスを披露し、チームもリーグ2位に入った[1]。1995-96シーズン、リーグ戦32試合で6得点、チームはリーグ3位となった[1]。ラツィオでのラストシーズンとなった、1997-98シーズン、公式戦53試合で10得点を決めた[1]。また、シーズン後半は多くの試合でキャプテンを務め、コッパ・イタリア決勝でACミランを破り、キャプテンとして優勝を果たした[1]。しかし、ロベルト・マンチーニが加入した影響で、チーム内に不協和音が生じるなどがあり、放出される形となった[1]。 1998-99シーズンにパルマに移籍、同年は、コッパイタリア、UEFAカップの優勝に貢献した。3シーズンをほぼレギュラーとして過ごした。2001-02シーズン、ASローマへ移籍、2シーズンを過ごしたが、かつてプレーした、ラツィオのライバルチームに移籍したことで、ラツィオファンから批判も受けた[1]。2003-04シーズン、当時セリエBに属した、古巣のトリノに複帰した[1]。 代表経歴1993年から2000年の間、イタリア代表に召集され、25試合で3ゴールを挙げた。1993年2月24日、ワールドカップ予選、ポルトガル戦で先発起用され、代表デビューを果たした[1]。しかし、怪我の影響で、1994年ワールドカップアメリカ大会メンバーから外れた[1]。 1996年、ユーロ1996では全3試合に出場した[1]。1997年にフランスで行われた トゥルノワ・ドゥ・フランスに出場し、1998年のフランスワールドカップ予選でも数試合プレーしたが、本大会のメンバーからは落選した[1]。ディノ・ゾフ監督体制では、中心選手の一人であり、ユーロ2000大会の代表候補の26人に選ばれたが、最終的には怪我の影響で落選した[1][5]。 プレースタイルポジションはMF。主に右サイドハーフやボランチを務めた、スタミナが豊富で、正確なクロスと強烈なミドルシュート、正確なセットプレーを武器に活躍した[6][7][8]。 個人成績
脚注
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