セントルイス・レスリング・クラブセントルイス・レスリング・クラブ(St. Louis Wrestling Club)は、アメリカ合衆国のミズーリ州セントルイスを拠点としていたプロレス団体。 概要セントルイス・レスリング・クラブはサム・マソニックが所有し運営した。1959年に創設され、1985年まで存続した。この団体はナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)のメンバーで、主にセントルイス地区をプロモートした。「NWAセントルイス地区」とは、この団体のことを指す。 マソニックはプロレス黎明期には珍しく、公正で誠実なプロモーターとして評判が高かった。また異例なこととして、セントルイス・レスリング・クラブはタッグ王座を承認せず、主にシングルマッチとアングルに焦点を当てた。 セントルイス・レスリング・クラブの興行は、キール・オーディトリアムで行われていた。1950年から1960年、また1963年から1975年まで、長くNWA会長を務めたマソニックの地元であったことから、キール・オーディトリアムは「NWAの総本山」と日本では呼ばれていた。 セントルイス・レスリング・クラブで活躍した人気選手には、ハーリー・レイス(セントルイス・レスリング・クラブとセントラル・ステーツ・レスリングの共同所有者でもあった)、ディック・ザ・ブルーザー、ルー・テーズ、ジン・キニスキー、アンドレ・ザ・ジャイアント、キングコング・ブロディ、テッド・デビアス、リック・フレアーなどがいた。 マソニックはセントルイスのチェッカードームでの1982年1月1日の興行を最後に引退し、レイスとボブ・ガイゲルに団体を売却した[1]。その後1985年までに、WWFとハルク・ホーガンはセントルイス地区でも強大な人気を得たために、団体は利益を失い始めた[2] 。1985年、団体は、後にWCWに吸収されることになるジム・クロケット・プロモーションズに買収された。 テレビ放送毎週KPLR-TVで団体の興行が放送されたテレビ番組『レスリング・アット・ザ・チェイス(Wrestling at the Chase)』は、プロレス史の中でも伝説の番組として知られる。 1958年、テレビ局KPLRとチェイスパーク・プラザ・ホテルのオーナーのハロルド・コプラーがサム・マソニックと飛行機で同乗して、セントルイス地区でのプロレス番組の制作の話が生まれた。同番組は1959年5月23日から1983年9月10日まで、セントルイスの地方局KPLR-TVで放送された。試合はセントルイスのチェイスパーク・プラザ・ホテルで収録され、通常は日曜の朝10時から放映された[3][4]。KPLRのスタジオは、便利なことにこのホテルに隣接していた。番組は24年間でおよそ1100回を数えた[5]。全盛期にはNWAのスター選手が勢揃いし、セントルイス地区ではローカルニュース、カーディナルズの試合中継に続いて3番目に高い視聴率を誇り、毎回10万人以上が視聴していた[4]。 タイトルNWAの一員としてセントルイス・レスリング・クラブは、世界王座としてNWA世界ヘビー級王座を認定し、王者は頻繁にセントルイスのテリトリーをツアーした。NWA世界ヘビー級王座のほか、以下の王座を認定していた。
ミズーリ王座はセントラル・ステーツ王座が前身となる。1972年1月28日にセントラル・ステーツ王座戦でパット・オコーナーがハーリー・レイスを倒した後の議論の末に生まれた。プロモーターらがオコーナーへのセントラル・ステーツ王座の移動を認めるのを拒否し、レイスをセントラル・ステーツ王者としてプロモートしようとしたため、サム・マソニックはセントラル・ステーツ王座の承認を止めて、代わりにミズーリ王座を創設された[6]。 参照
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