セルゲイ・クジュゲトヴィチ・ショイグ (ロシア語 : Серге́й Кужуге́тович Шойгу́ , ラテン文字転写 : Sergei Kuzhugetovich Shoigu 、トゥバ語 : Сергей Күжүгет оглу Шойгу 、1955年 5月21日 - )は、ロシア の政治家 。非常事態相 、モスクワ州 知事、国防大臣 を歴任。2024年 より安全保障会議書記 を務めている。少数民族のトゥバ人 出身。2024年6月25日よりウクライナの電力インフラを攻撃した戦争犯罪の容疑で、国際刑事裁判所 (ICC)から逮捕状が出されている[ 1] 。
経歴
1955年 5月21日 、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 のトゥヴァ自治州 チャダーナ市 (ロシア語版 ) にて、トゥバ人 の父とウクライナ 出身のロシア人 の母との間に生まれる。父のクジュゲトは、トゥヴァ地方紙の編集者を務め、後にソ連共産党 トゥヴァ地方委員会書記、トゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国 閣僚評議会第一副議長の職を歴任した。1960年 、ショイグはウクライナ・ソビエト共和国 ルハンシク州 カディエフカ (ウクライナ語版 ) の教会で、キリスト教正教会 の洗礼を受ける[ 2] 。しかしショイグの娘のクセニヤ・ショイグ (ロシア語版 ) によれば、彼は宗教的には仏教 の伝統を尊重しているという[ 3] 。1962年 から1972年 までは地元の学校で学び、1972年にはクラスノヤルスク工業大学 (ロシア語版 ) に入学し、建築学 を専攻する。その後土木技師の資格を習得し、同校を卒業した[ 4] 。なお、ショイグはその後ロシア国防大臣 の職につき、上級大将 まで昇進するが、兵役には就いていない[ 5] 。
初期のキャリア
1977年 にクラスノヤルスク工業大学を卒業後、シベリア の各都市の企業合同体に勤め、建築技師や職長、管理人などを歴任する。1988年 に党 アバカン市委員会第二書記、1989年 に党クラスノヤルスク地方委員会監察官、1990年 にシベリアからモスクワに移り住んだ後は父親の「コネ」でロシア連邦共和国国家建築・建設委員会副議長の職を務める。また、このとき後にロシア連邦大統領 となるボリス・エリツィン も建設委員会で同様の役職に就いており、同じ土木工学の出身だったため、ショイグはエリツィンの信頼を得た。
ロシア非常事態省大臣(1991年 - 2012年)
上級大将に昇進したショイグ(2006年)
ショイグとプーチン(2008年4月)
1991年 、エリツィンはショイグを新設されたロシア民間防衛隊の隊長に任命し、救助と災害対応システムの責任者とした。民間防衛隊は、それまでのソ連の民間防衛システムに取って代わり、国防省の管轄下に置かれた総勢2万人の民間防衛部隊を吸収してできた組織であり、同年4月、ショイグはロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省 の初代議長に就任する。ショイグ率いる非常事態省内の民間防衛隊は、ソ連の慣行を引き継ぐ準軍事組織であり、1992年 にロシアが支援するアフガニスタン のムハンマド・ナジーブッラー 大統領の避難ミッションを実行し、1993年 10月 のクーデター(モスクワ動乱事件 )の際には、武器庫からエリツィン支持者に武器を配布しようとするなど、数々の任務において活躍場を見せ、ショイグも政治的に関与した。民間防衛隊の軍事化に伴い、ショイグは1993年に少将の階級を授与され、1995年 に中将、1998年 に大将、2003年 に上級大将に昇進した。議長に就任した皮切りに、同年12月のソビエト連邦の崩壊 後は非常事態・災害復旧のプロフェッショナルとして新生ロシアの危機管理の面で力を振るう事となり、1994年 1月にはヴィクトル・チェルノムイルジン内閣の非常事態省の担当大臣に就任する。洪水、地震、テロなどの緊急事態に際して、ショイグはその実務的な管理スタイルと高い知名度で人気を博した。ショイグの下、同省は拡大され、2002年 にはロシア国家消防局 (ロシア語版 ) を引き継ぎ、非常事態省はロシアで3番目に大きな組織となった。
1996年 には、安全保障会議 議員、核兵器委員会委員、1997年 には非常事態予防・除去省庁間委員会議長などの職も歴任する。
1999年 の国家院 選挙前に、エリツィン大統領の指令を受けて結成された政権与党である「統一」の党首に選出され、選挙において勝利を収めた。「統一」は祖国・全ロシア と合流し、統一ロシア となり、設立後はミンチメル・シャイミーエフ やユーリ・ルシコフ と共に党最高会議共同議長(党首)を務めた[ 6] 。閣僚職ではプーチン 大統領を経て、メドヴェージェフ 大統領就任後も引き続き非常事態相を務めた。また同年、ショイグはロシアの最高位国家勲章である「ロシア連邦英雄 」の受勲を受けた[ 7] 。
2009年 3月 には、第二次世界大戦 中のソ連軍 の戦術に対する批判を犯罪とする法律を提案した。
2011年 3月11日の東日本大震災 ではメドヴェージェフ大統領の指示で援助隊を組織した。同年7月に原田親仁 駐ロシア連邦大使と会談し、日露両国が共同で災害対応体制に関する整備が必要との考えを示した[ 8] 。
モスクワ州知事(2012年)
非常事態相を20年以上務めたショイグは、2012年 3月 にモスクワ州 知事に立候補し[ 9] 、プーチンと親密な関係を築き、その甲斐あって、2012年4月5日 州議会によって選出され、2012年5月11日 に正式にモスクワ州知事に就任した。
国防大臣(2012年 - 2024年)
日本 を訪問するショイグ国防相(2017年3月19日)
2012年11月6日 、資産 売却の汚職 事件に関与して解任されたアナトーリー・セルジュコフ の後任として国防相 に就任[ 10] 。専門家のセルゲイ・スミルノフによると、セルゲイ・イワノフ 、セルゲイ・チェメゾフ 、ヴィクトル・イワノフ らシロビキ の「ペテルブルク・グループ」(サンクト派)と呼ばれる一派は、セルジュコフの後継者には自分たちの派閥内から選ばれることを望んでいたが、プーチンは同派の強化に消極的であったため、中立的なショイグを選んだという。また、ショイグは軍人として一切の経験が無い中、国民からの人気が高く、非常事態省の手腕を買われた異例の大抜擢となった[ 11] 。就任後はロシア軍の近代化と専門性を高める改革に着手した[ 11] [ 12] 。
先代のセルジュコフは文官 出身であるため、軍部から不人気であった。しかしショイグも職業軍人 ではなかったので、軍部の関心を買うため、 上級大将 の階級章 を付けた陸軍 の制服を着用し、セルジェコフ改革により解散された部隊を復活させ、セルジュコフが解任した官僚を復職させるなどの対策を行使した。さらにショイグは対立的な姿勢をとるのではなく、軍内部で改革への支持を訴え、軍部から国防副大臣を任命し、セルジュコフが任命した民間の税管理職員を国防省 の上層部から排除した。
ショイグは国防相として、改革を通じてロシア軍を近代化しようとした先代のセルジュコフの改革を引き継いだ。これには、旧ソ連圏内の紛争に対する迅速な介入や対テロ活動に向けた特殊部隊司令部 (ロシア語版 ) の創設、徴兵 された民兵ではなく、プロの職業軍人により構成されるロシア軍の再建等が含まれる。しかし、そもそも徴兵される男性の数が減少しているという人口統計学的な課題から、2013年 初めにはチェチェン人 など、当局が安全保障上のリスクと見なす北カフカース 人までも含めて、全国的に徴兵対象を拡大させることを余儀なくされた。だがこれは徴兵免除の枠を減らすというセルジュコフの構想を継承したものだった。
2013年7月 、ショイグは各兵営指揮官に対し、毎朝兵営でロシア連邦国歌 の斉唱から始めること、軍事的・愛国的な読書リストの作成を義務付けること、復員アルバム(ロシア軍の伝統である、兵役終了時に徴兵者に渡される記念品の一つ)の作成に責任を持つことを命じた。同年8月 、ショイグは国防省の職員に制服の着用を命じた。以後文民官僚は各々の持つ文官階級を肩章にした制服を着用した。
2014年 2月 、ショイグは、ロシアがベトナム 、キューバ 、ベネズエラ 、ニカラグア 、セーシェル 、シンガポール 、その他数カ国と、軍事基地の設置及びそれらの国に航空機 用給油基地を設置するための協定を締結する予定があると公表し、翌年、ベトナムとのみ協定を事実上締結した。
ウクライナ紛争
ウクライナ騒乱 やシリア内戦 では軍事介入を実行に移し、2014年のクリミア併合 の立役者と称されており[ 13] 、参謀本部情報総局 (GRU)も従属機関としているため、2018年 、イギリス のソールズベリー で発生した神経毒ノビチョク を使用したセルゲイ・スクリパリ 毒殺未遂事件や2020年 のアレクセイ・ナワリヌイ 毒殺未遂事件に関っているとされ西側から批難されている[ 13] 。2014年7月には、ウクライナはショイグに対する刑事裁判を起こした。ショイグは当時ウクライナ軍 と戦っていた東部ウクライナの「非合法軍事グループ」の結成を支援したことで告発された。ウクライナ当局は、ショイグがドネツク人民共和国 の国防大臣イーゴリ・ギルキン を支援し、5月以来、彼と「他のテロリストの指導者」に「最も破壊的な武器」を供給し、プーチンの承認を得て、彼に直接指示を出したと主張した。
シリア内戦
シリアのアル=アサド大統領と会談するショイグ(2017年12月12日)
2015年 9月30日 、ロシア軍はシリア内戦 に介入した。この作戦は、ロシア海軍 とシリア大統領バッシャール・アル=アサド のシリア軍 の支援を受けたロシア航空宇宙軍 によって実施された。同年12月16日 、非公開の場で国務院 議員に演説したショイグは、ロシア軍がシリアのユーフラテス川 に到達する可能性について言及した。また、2021年 8月 には、ロシアはシリアでの作戦の過程で320の新兵器をテストしたと述べた。
2016年 6月 、ロシア・トゥデイ (モスクワ に拠点を置くニュース番組)は、ショイグのフメイミム空軍基地 訪問を報じる中で、RBK-500 (英語版 ) がロシア軍機に積み込まれる様子を映した。後にこの動画は削除されたが、編集された形で再度公開された。2017年 12月11日 、シリアがISIL からの解放宣言した数日後、プーチンはシリアのロシア軍基地を訪れ、シリアに展開していたロシア軍部隊の一部撤退を命じた。その数時間後、ショイグは部隊がすでに帰還を始めていると発表した。
2018年 9月17日 、イスラエル軍 のF-16ジェット機 がシリア西部の標的を複数回ミサイル攻撃している最中に、15人のロシア軍兵士を乗せてフメイミム空軍基地に帰還していたロシアのIl-20 ELINT 偵察機 が、シリアのS-200地対空ミサイル によって不注意にも撃墜された。ショイグは翌日この事故について、「イスラエル軍」を非難した。撃墜事件後の9月24日 にショイグは、シリアの戦闘防空力を強化するために、シリア軍に2週間以内にS-300防空ミサイル・システム を受け渡すよう主張した。
国防相再任
2021年11月にモスクワで開催されたCIS国防相理事会
ショイグは2018年、第2次メドヴェージェフ内閣 で国防相に再任された。また、2020年にミシュスティン内閣 においても国防相に再任された。
中国との関係
2018年9月に中国 ・モンゴル が初めて参加してソビエト連邦 最大の軍事演習「ザーパド81 」を超える規模となったロシア史上最大の軍事演習「ボストーク2018 (ロシア語版 ) 」を極東ロシア で実施し[ 14] 、これに当たってショイグはモンゴルと中国を「同盟国」と呼んで注目され[ 15] 、視察に訪れた中国の魏鳳和 国務委員兼国防部長 との会談で、定期的に中国とロシアは同様の演習を実施することで一致した[ 16] 。
2022年のウクライナ侵攻
2021年8月29日 にショイグが「ロシアはウクライナを脅威とは考えていない」と述べたとされているが、その一方で、ウクライナの状況が最終的に変化し、「民族主義 者の騒乱」が収まることへの期待を表明していたという。ショイグはウクライナ人 は単なる隣人ではなく、「我々は一つの民族だ」と述べた。
2022年2月11日 、ショイグはイギリスのベン・ウォレス 国防大臣 と会談した。この会談には参謀総長のワレリー・ゲラシモフ 将軍も参加した。ショイグはウォレスにロシアがウクライナ侵攻を計画していることを否定し、ミンスク議定書 を履行することが重要であると述べたとされる。
2022年2月24日 、ロシアはウクライナへの大規模な軍事侵攻を開始した。ショイグは侵攻の目的を「我が国との戦いでウクライナ国民を利用しようとしている西側諸国がもたらす軍事的脅威からロシア連邦を守るため」と述べた。また、確かな詳細は不明だが、ウクライナ侵攻の決定はプーチンとショイグ、そしてプーチンの安全保障会議書記 のニコライ・パトルシェフ を含むプーチン側近の小グループによって決められたという。3月11日 のプーチンとのビデオ会議で、ショイグは「すべてが計画通りに進んでいる」と主張した。
プーチンと(2017年7月30日)
基本的にはプーチンの従順なイエスマンと見られている[ 17] 。2022年ロシアのウクライナ侵攻 以前はプーチンに次ぐ人気を誇る政治家であり、後継候補の最有力者とも目されていたが開戦後は失態を繰り返し評判を大きく落とした[ 18] 。軍事作戦を指揮する立場であるにもかかわらず、3月11日から同26日に政府高官らとの会合に姿を見せるまで2週間以上も公の場に姿を現さず様々な憶測を呼ぶこととなった[ 19] [ 20] 。Noticias del Mundo、mirrorなどいくつかのメディアにより、心臓発作による入院であるとも報じられているが、クレムリンは認めていない[ 21] [ 22] [ 23] 。更迭や逮捕の噂が流されるほど評判は芳しくない[ 18] 。
ウクライナ侵攻に参加した元ロシア兵の証言では、「国民の9割が軍経験がないことを笑っている」と揶揄された[ 24] 。
2024年5月8日にプーチン政権が5期目に突入し、ショイグは国防相を退任し安全保障会議書記 に転じた[ 25] 。
なお、ショイグの国防相退任後、側近だったティムール・イワノフ (英語版 ) 、パべル・ポポフ (英語版 ) 両国防次官を初め、国防省人事総局長や軍参謀次長、レニングラード軍管区 副司令官など軍高官らが相次ぎ汚職の疑いで身柄を拘束されており、「ショイグ派」の追い落としが行われているとみられる[ 26] [ 27] [ 28] [ 29] [ 30] 。
制裁
欧州連合 は、EU規則 (No 269/2014)の規制対象リストにショイグの名を追加し[ 31] 、アメリカ ではSDNリスト に対象者として追加された[ 32] 。日本では2022年3月1日、ロシアのウクライナ侵攻 に伴う制裁の一環で日本国政府より資産凍結 の対象者に指定されている[ 33] 。
人物
ショイグは母語であるトゥバ語 とロシア語 のほか、英語 、日本語 、中国語 、トルコ語 を含む9つの言語を流暢に扱うことで知られる[ 34] 。
家族
セルゲイ・ショイグはソヴェト の政治家である父のクジュゲト・セレエビッチ・ショイグ (ロシア語版 ) (Кужугет Серээвич Шойгу 1921年–2010年)と[ 35] 、畜産学 を習得し、トゥヴァ共和国から農業の名誉労働者として表彰された母のアレクサンドラ・ヤコブレブナ・ショイグ(旧姓:クドリャフツェワ 1924年–2011年)の間に3人兄妹の長男として生誕する。父であるクジュゲトは地元新聞社の編集員として働いており、後にソビエト連邦共産党 員としてソビエト当局に従事し、トゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国 のテュルク党 員会の書記を務め、副議長の地位をもって引退した。
ショイグには姉で下院議員 であったラリサ・クジュゲトブナ・ショイグ (英語版 ) (Шойгу, Лариса Кужугетовна 1953年–2021年)と妹で精神科医 を務めるイリーナ・クジュゲトブナ・ザハーロワ(旧姓:ショイグ 1960年-)の兄妹がいる[ 36] 。
ツーリスト会社「Expo-EM」で社長を務めるエレナ・アレクサンドロブナ・ショイグ(旧姓:アンチピナ)と結婚しており、2人の子女となるユリア[ 37] (1977年-)とクセニア[ 37] (1991年-)が誕生している。ロシアの政治活動家 アレクセイ・ナワリヌイ によれば、モスクワ 郊外の宮殿をクセニア名義で所有しているとされており、その価値は1,200万ポンド である。2012年、不動産はエレナ・アンチピナ名義として正式に譲渡された[ 38] 。
趣味
ショイグは、アレクサンドル1世 (1812年-1825年)時代の「1812年ロシア戦役 」と「デカブリストの乱 」の研究を趣味としている[ 39] 。
スポーツ好きとしても知られ、プロアイスホッケー チームであるHC CSKAモスクワ と、プロサッカー チームFCスパルタク・モスクワ のファンである。2016年3月、ショイグはセルゲイ・ラブロフ とともに、ロシア全土からのスポーツのファンを団結させることを目的とした、ロシア・セカンドディビジョン の設立を行っている。
このほかインド 、中国 、日本の刀 や短剣 収集も趣味としており、ギター 演奏と吟遊詩人 時代の歌を楽しむ。水彩画 を描き[ 34] 、古い木片の収集にも興じており、その木片コレクションをプーチン に対し披露している[ 40] 。
宗教
仏教 ないしシャーマニズム のどちらかの修行者であるという噂があるが、2008年、53歳のときにロシア正教会 で洗礼を受けたと述べている[ 41] 。
脚注
出典
外部リンク