セオドア・ドライサー
セオドア・ハーマン・アルバート・ドライサー(英語: Theodore Herman Albert Dreiser, 1871年8月27日 - 1945年12月28日)は、アメリカ合衆国の作家。 経歴インディアナ州テレホートで、ドイツ系移民(ローマ・カトリック)の父とチェコ系移民(メノー派)の母との間に、13人兄弟の12番目の子として生まれる。父親の事業が失敗したせいで一家は貧しかった。14歳年上の兄ポール・ドレッサーは19世紀末に活躍した作曲家・俳優であり、ドライサーは短編集『Twelve Men』(1919年)の一編“My Brother Paul”で兄の人生について書いている[1]。 16歳で家を飛び出したドライサーは、様々な職業を経て新聞記者となり、セントルイス、ピッツバーグ、ニューヨークなど各地を転々とする一方で、ホーソーン、ポー、バルザック、ハーバート・スペンサー、ジョン・ティンダル、トマス・ハックスリー、フロイトなどの著作を耽読する。幅広い社会を経験すると同時に、現実社会を科学的に把握する方法論を学んだ。 1900年、中西部の田舎からシカゴに出てきた貧しい娘が妻子ある男と駆け落ちし、ニューヨークで女優として成功し、一方男は対照的に転落していく様を描いた『シスター・キャリー』で作家デビューを果たす。主人公のアンモラルな人物造型が物議を醸し、初版はほとんど売れなかった。 1925年、代表作『アメリカの悲劇』を発表する。貧しい青年が出世のために恋人を殺害してまで上流階級に登ろうとするが、結局は環境に弄ばれて死刑になるまでを描いたこの作品は、アメリカ自然主義文学の傑作とされ、1998年にランダム・ハウス、モダン・ライブラリー編集部が選出した「英語で書かれた20世紀のベスト小説100」では16位に選ばれるなど、英米での評価が高い(ちなみに『シスター・キャリー』は33位)。また、1931年にジョセフ・フォン・スタンバーグ監督により『アメリカの悲劇』(An American Tragedy)として映画化され、1951年にジョージ・スティーヴンス監督により『陽のあたる場所』(A Place in the Sun)として映画化された。 怪奇現象研究家のチャールズ・フォートの著作に熱中し、1931年にはフォーティアン協会 (Fortean Society) の創立に参加[2]。 長い間、正当な評価を受けることが少なかったが、生誕100周年を迎えた1970年代以降に再評価が進み、現在ではマーク・トウェインらと並ぶアメリカ文学の父として、不動の地位を築いている。 主要作品フィクション
ノンフィクション
全集等
脚注
関連項目
外部リンク |
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