スーリヤヴァルマン
スーリヤヴァルマン(サンスクリット語: सूर्यवर्मन्, ラテン文字転写: Sūryavarman, クメール語: សូយ៌្យវម៌្មទេវ, 生没年不詳)は、パーンドゥランガの国王(在位:1190年 - 1192年)、およびチャンパ王国(占城国)第12王朝の国王(在位:1192年 - 1203年[1])。初名はヴィディヤーナンダナー(サンスクリット語: विद्यानंदना, ラテン文字転写: Vidyānandana, クメール語: វិទ្យានន្ទន៍)。『大越史記全書』では布池(ベトナム語: Bố Trì)と記される。 生涯元々はチャムの王族で、1182年にトゥムプラウク=ヴィジャヤからクメールに身を寄せた。伝承によるとクメール王ジャヤーヴァルマン7世は、「運命の者」とされる33の印をヴィディヤーナンダナーが全て備えていることを見て取り、その資質を見出したとされる[2]。ヴィディヤーナンダナーは科学的・軍事的な教育を受け[2]、長じてジャヤーヴァルマン7世から将軍に任じられた。マリャンで起こった反乱の鎮圧をジャヤーヴァルマン7世から命じられて達成し[2]、ユーヴァラージャの称号と多くの財宝を与えられた[2]。1190年、チャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世がクメールに侵攻してきた。ジャヤーヴァルマン7世から軍の指揮を任されたヴィディヤーナンダナーはチャンパ軍を撃退した。勝ちに乗じたクメール軍は反攻し、チャンパの王都ヴィジャヤを占領した。ジャヤ・インドラヴァルマン4世を捕虜として[3]、クメールの王都アンコールに連行した[2]。 チャンパを征服したジャヤーヴァルマン7世[4]はチャンパの国土を2つに分割し、義弟のインをヴィジャヤの王とした(スーリヤジャヤヴァルマン)[2][5]。ヴィディヤーナンダナーはヴィジャヤの南にあるパーンドゥランガをジャヤーヴァルマン7世から与えられて王となり、スーリヤヴァルマンを称した[2][5]が、ヴィジャヤ・パーンドゥランガともにクメールの傀儡であった。 1191年にヴィジャヤで政変が起こり、チャムの王族であったラシュパティがスーリヤジャヤヴァルマンをクメールに追放して[2]、ジャヤ・インドラヴァルマン5世を称した[2]。クメールの支配から脱することを目論んだスーリヤヴァルマンは翌1192年にヴィジャヤに侵攻し[5]、ジャヤ・インドラヴァルマン5世およびクメールから解放されてヴィジャヤに戻り、復位を狙った[3]ジャヤ・インドラヴァルマン4世を殺害してチャンパを再統一した[2]。1194年にはジャヤーヴァルマン7世が派兵してきたクメール軍を撃退して[2]地歩を固めた。 1198年、スーリヤヴァルマンは李朝大越に使者を送り、翌1199年10月に高宗より占城王に封じられた。1203年、スーリヤヴァルマンの叔父のダナパティ・グラーマがクメールに通じ、クメール軍が侵攻してきた[2]。敗れたスーリヤヴァルマンは200艘余りの兵船で海上に脱出し、大越の機羅海口(現在のハティン省キーアイン市社)に逃れた。大越の殿指揮使知乂安州の杜清と州牧の范延はスーリヤヴァルマンを攻めようとしたが、企みが事前に漏れ、スーリヤヴァルマンは杜清・范延および乂安の兵200人余りを返り討ちにして[6]、再び海上に逃亡しその後は行方不明となった。 チャンパはクメールに併合され、ダナパティ・グラーマがジャヤーヴァルマン7世から旧チャンパ区域の統治を任された[2]。クメールによるチャンパ支配からの独立は、ジャヤーヴァルマン7世没後[5]の1220年[7]にジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世[5]によって成し遂げられることになる[8]。 出典参考資料
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