スティーヴ・ブルース
スティーブン・ロジャー・"スティーヴ"・ブルース(Stephen Roger "Steve" Bruce, 1960年12月31日 - )は イングランド出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはDF。 息子のアレックス・ブルースもプロサッカー選手。 経歴父はイングランド人で母は北アイルランド人。少年時代はニューカッスル・ユナイテッドのファンであった。 選手時代ジリンガムでキャリアをスタートさせ、200を超える試合に出場する。1979年にはイングランド代表のユースチームにも選ばれる。その後、ノリッジ・シティで3年間過ごし、フットボールリーグカップを獲得する。そしてマンチェスター・ユナイテッドへと移籍し、1992-93, 1993-94, 1995-96シーズンでFAプレミアリーグを制した他、いくつものタイトルを獲得する。晩年には1996年にバーミンガム・シティの一員となり、1998年7月からシェフィールド・ユナイテッドでプレイングマネージャーとして1年間プレーした後現役を引退。その後は監督としての道を歩んでいる。 指導者時代1998年7月にシェフィールド・ユナイテッドFCの選手兼監督に就任すると、1998-99シーズン終了まで指揮を執った。その後、正式に現役引退し、1999年5月にハダースフィールド・タウンFCの監督に就任したが、2000-01シーズン途中にクラブの経営難により解任された。2001年4月、ウィガン・アスレティックFC監督に途中就任し、シーズン終了までクラブを率いた。6月にクリスタル・パレスFC監督に就任したが、18試合を指揮しただけで11月に監督の座を退いた[1]。 2001年、EFLチャンピオンシップ(2部)のバーミンガム監督に就任すると、2002年にプレミアリーグ昇格を達成し、攻撃意欲旺盛なチームを作り上げた[1]。2006年に降格したが、1シーズンで再昇格を果たした。2007-08シーズン途中にウィガン・アスレティックFC監督に就任すると、最下位争いをしていたチームを14位に引き上げた。2008-09シーズンはFWアムル・ザキの活躍で一時は7欧州カップ戦出場を狙える位置に付けたが、MFウィルソン・パラシオスとFWエミール・ヘスキーを冬の移籍期間に引き抜かれ、11位でシーズンを終えた。ウィガンでの在職中には、幼少時代からの最愛のクラブであるニューカッスル・ユナイテッドFCから監督就任のオファーを受けたが、シーズン途中であるということで断った[1]。 2009年5月27日、シーズン終了後に辞任したリッキー・スブラジアの後任を探していたサンダーランドと3年契約を結び、6月3日に監督に就任した[2][3]。2011年11月26日、降格圏にいたウィガンにホームで1-2で敗れ、16位と低迷し、4日後に解任された。[4] 2012年6月8日、3年契約でチャンピオンシップのハル・シティの監督に就任し[5]、初年度の2012-13シーズンはホームでの最終節でカーディフ・シティと2-2で引き分け、2位でシーズンを終え、チームをプレミアリーグ昇格に導いた[6]。2016年7月22日に退任した。 2016年10月12日、チャンピオンシップのアストン・ヴィラの監督に就任した[7]。2017-18シーズンはチームを昇格プレーオフ出場に導き、準決勝でミドルズブラを破ったが[8]、決勝でフラムに0-1で敗れプレミアリーグ昇格を逃した[9]。2018年10月2日、ホームでプレストン・ノースエンドと3-3で引き分けた試合後にサポーターの一人からキャベツを投げつけられた[10]。翌日、成績不振により解任された[11]。 2019年7月、ラファエル・ベニテスの後任としてニューカッスル・ユナイテッドFCの監督に就任。しかし、就任以降チームは10位台に低迷。2021-22シーズンは開幕から未勝利が続き、2021年10月20日に解任された[12][13]。 2022年2月4日、WBAの監督に就任した[14]。しかし序盤から不振に喘ぎ3部降格圏に位置していた中で10月10日、解任が発表された。[15] 監督成績
対戦する際にダービーマッチと呼ばれるライバルチームの双方で監督を務めたことが、これまでに3度ある(タイン・ウェア・ダービーのニューカッスルとサンダーランド、スティール・シティ・ダービーのシェフィールド・ウェンズデイとシェフィールド・ユナイテッド、バーミンガム・ダービーのアストン・ヴィラとバーミンガム・シティ)。 獲得タイトル
脚注
外部リンク
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