Arms:Quarterly: 1st grandquarter, Or on a Saltire Azure nine Lozenges of the field (Dalrymple); 2nd grandquarter, Or a Chevron chequy Sable and Argent between three Water Bougets of the second (Ross); 3rd grandquarter, quarterly: 1st and 4th counterquartered: 1st and 4th, Gules three Cinquefoils Ermine; 2nd and 3rd, Argent a Galley sales furled Sable; the whole within a Bordure company Argent and Azure, the first charged with Hearts Gules and the second with Mullets Argent (Hamilton of Bargany); 2nd and 3rd, Gules on a Fess between three Crescents Or as many Mullets Azure (de Franquetot); 4th grandquarter, quarterly: 1st and 4th, Gules on a Chevron between three Cinquefoils Argent as many Round Buckles Azure (Hamilton of Fala); 2nd and 3rd, Gules three Martlets Argent (Makgill) Crest:A Rock proper Supporters:On either side a Stork holding in its beak a Fish all proper
ダルリンプル家はその歴史を中世にまで遡ることができるが、家格や財力の面において貴族に叙されるほどの家柄ではなかった[1]。そうした事情が一変したのはその祖ジェームズ・ダルリンプル(英語版)(1619-1695)の代で、彼が急速に司法官僚として栄達を遂げ貴族に叙せられることとなる。ダルリンプルはスコットランド民事控訴院長官(英語版)も務めた法曹家である一方、政治家としてはスコットランド議会(英語版)において王権・宮廷の利益を擁護する立ち回りを演じている[1]。彼は1664年にノヴァスコシア準男爵位の(ステアの)準男爵(英語版)(Baronet, of Stair)を得たことを皮切りに、続く1690年4月21日にはスコットランド貴族のステア子爵(Viscount of Stair)及びグレンルース=ストランラー卿(Lord Glenluce=Stranraer)に叙せられて貴族に昇った[注釈 1][2][3]。一連の叙爵にはイングランド王国とスコットランド王国の合同に向けて政治力のある法曹家のダルリンプルを英政府の味方につける狙いがあったとされる[4]。なお、法曹官僚として活躍した者は彼のみならず、一族からは僅か18年の間に9名の代議士が輩出され、うち7名は法曹関係者(スコットランド民事控訴院長官(英語版)や法務長官(英語版)経験者を含む)といったように、当時のスコットランド法曹界に大きな影響力を及ぼした[5]。
その息子である2代子爵ジョン(1648-1707)も一族の御多分に漏れず、法曹家として頭角を現して法務長官(英語版)や民事控訴院主席書記官(英語版)を歴任したほか、名誉革命後の国王ウィリアム3世に仕えて筆頭国務大臣(英語版)を務めた[5][6]。彼は1703年4月8日にスコットランド貴族爵位のステア伯爵(Earl of Stair)、ダルリンプル子爵(Viscount Dalrymple)、ニューリストン、グレンルース及びストランラー卿(Lord Newliston, Glenluce and Stranraer)を与えられて、現在へと続く伯爵家の始祖となった[7][8]。ただし、彼は生前に自身の署名と指示の下、マクドナルド氏族の謀殺(グレンコーの虐殺)を行って悪名を馳せている[9]。ゆえにダルリンプル家の名にも傷がつき、スコットランドでは伯爵家の家紋と似るトランプの「ダイヤの9」が不吉の象徴とされるほどであった[10]。
8代伯ジョン(1771-1853)はフランス革命戦争やナポレオン戦争に参戦して、陸軍大将にまで進んだ人物である[16]。彼は1841年8月11日に連合王国貴族としてミッドロジアン州コースランドのオクセンフォード男爵(Baron Oxenfoord, of Cousland in the County of Midlothian)を授けられた[17][18]。子はなかったものの男爵位には弟ノース(1771-1864、9代伯)への特別継承権があり、次代へと繋ぐことができた[8][18]。