スダルモノ
スダルモノ(インドネシア語: Soedharmono, 1927年3月12日 - 2006年1月25日)は、インドネシアの政治家、軍人。同国第5代副大統領、ゴルカル第4代党首を務めた。 経歴1927年3月12日にオランダ領東インド、グリッセにてスピヨ・ウィロディレジョとラデン・ンガンテン・スカルシの息子として誕生する[1]。1945年に中学校を卒業。インドネシア独立宣言後、インドネシア独立戦争に参加するため、進学を断念。インドネシア陸軍のロンゴラウェ師団の司令官となり、戦争中その地位にあった。1949年にオランダがインドネシアから撤退した後、スダルモノは中等教育を修了し、1952年にジャカルタでインドネシア士官学校に入り、1956年に課程を修了した。その後、1957年から1961年まで陸軍弁護士として北スマトラ州メダンで勤務。1968年まで陸軍に在籍し、インドネシアとマレーシアの対立や最高作戦司令部に勤務した[2]。スカルノの失脚、9月30日事件、そしてスハルトの台頭後、スダルモノはスハルトによって内閣官房長官と経済安定評議会議長に任命された後、軍を去った。1970年、スダルモノは官房長官から国務長官に昇格し、スハルトを補佐する立場となった。1983年のゴルカル全国会議で、スハルトの支持を得て、スダルモノはゴルカルの党首に選出された。1988年、国民協議会総会での副大統領選挙で、スハルトに同行する副大統領に選出された[3]。スダルモノは副大統領として非常に積極的な政治を行った。しかし、軍部はスダルモノがゴルカル派の代表として副大統領に選出されたことに不快感を示した。これは1993年3月の国民協議会総会で最高潮に達し、軍はスハルトの同意なしにトリ・ストリスノを副大統領に指名した。スハルトはこれを不服したが、スハルトは軍の代議員との公然たる対立を望まず、トリを副大統領として受け入れた[4]。任期終了後、スダルモノは自伝を2冊出版した。1998年5月、スハルト失脚の前夜、スダルモノは元副大統領のウマール・ウィラハディクスマ、トリ・ストリスノとともにスハルトの邸宅を訪れ、可能な選択肢について話し合った。スダルモノはメトロポリタン医療センター病院で治療を受けた後、2006年1月25日に死去した。遺体はジャカルタのカリバタ英雄墓地に埋葬された。 脚注
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