スタニスワフ・ヴィスピャンスキ
スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(ポーランド語: Stanisław Mateusz Ignacy Wyspiański (発音 ['staˈɲiswaf vɨˈspjaɲskʲi]), 1869年1月15日 - 1907年11月28日)は、ポーランドの画家、劇作家、詩人。内装や家具のデザイナーとしても活動した。愛国的な作家として立場を固めたのちも、若きポーランド運動 の芸術哲学に共鳴し、一連の象徴的な国民的演劇を生み出した。 外国政府に分割統治されていたポーランドにあって、多面的な活動をした芸術家の筆頭とされる[1]。モダニズムにポーランドにおけるロマン主義(1820年–1864年)と民族の伝統を持ち込んだ功績と、詩の才能を誇ったポーランドの三吟遊詩人と公認されるアダム・ミツキェヴィチ、ジュウシュ・スウォヴァツキ、ジグムント・クラシンスキに次ぎ、非公式にポーランドの4番目の吟遊詩人とされる[2][3][4]。 ヴィスピャンスキの肖像は1988年から1万ズウォティ・ポーランド紙幣に採用された[要出典]。 経歴
ガリツィア・ロドメリア王国クラクフで生まれた[5]。父親は彫刻家であった。母親はまもなく結核によって没した。 若い頃に著名な画家ヤン・マテイコに才能を発掘されて師事し、ポーランド史や文学を学んだ。ヤギェウォ大学に入学して哲学を学び[1]、さらにヤン・マテイコ美術アカデミーに通う。1890年以降にフランス、ドイツ、イタリア、スイスを訪れた。 やがてフランスでアカデミー・コラロッシに通い、その頃にポール・ゴーギャンと知り合う。美術館でピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの絵画に衝撃を受けた。また劇場でシェークスピアの劇を鑑賞した。 クラクフに帰還した1894年以降にモダニズムに参加。複数の教会のステンドグラスをデザインした。また1897年頃から戯曲を発表し始める。若きポーランド運動に関わった。1901年に結婚式を題材にした風刺戯曲『Wesele』を発表した。 1906年にヤン・マテイコ美術アカデミーの教員に招かれた。翌年、クラクフで没。 主な著作発行年順
全集没後に編まれた〈スタニスワフ・ヴィスピャンスキ作品集〉がある(Wydawnictwo Literackie(文芸出版社)発行)。
日本語訳
絵画脚注
参考文献主な執筆者、編者順。
関連項目姓の50音順。 外部リンク |