ジョニー・デイモン
ジョニー・デビッド・デイモン(Johnny David Damon, 1973年11月5日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州フォートライリー出身の元プロ野球選手(外野手)。 経歴1973年、アメリカ陸軍フォートライリー基地において、白人で軍人の父親とタイ人の母親の間に生まれる。 プロ入りとロイヤルズ時代1992年のMLBドラフト1巡目(全体35位)でカンザスシティ・ロイヤルズから指名され入団。 1995年8月12日にメジャーデビューし、45試合に出場し、打率.282を記録した。 1996年、初めて1年を通してメジャーでプレーをした。145試合に出場し、打率.271、リーグ8位の25盗塁を記録した、8月10日エンゼルス戦では自身初の満塁本塁打を放った[1]。 1998年は全161試合(メジャーは162試合制であるが、1998年ロイヤルズは161試合だった)に出場し[2]、打率.277、リーグ2位の10三塁打を記録した。 1999年は打率.307で初めで打率が3割台を記録したが、9月14日のエンゼルスとのダブルヘッダー第2戦で欠場したため、球団記録を更新し続けていた連続試合出場が305で途切れた[3]。 2000年は開幕から4月下旬まで打率が2割を下回るなど極度のスランプに陥り、4月19日のツインズ戦では監督のトニー・ミューサーが彼らしいスイングが全くできていないからと、試合を休ませた[4]。本人はこの欠場が復調のきっかけとなったと認めており、翌日から5月7日にかけて14試合連続安打を記録し、その間に達成した10試合連続先頭打者安打は、25年前にこの記録を付けるようになってからで最長となった[4]。 7月には打率.436を記録し、18日のカブス戦ではMLBタイ記録となる4二塁打を放ち[5]、プレイヤー・オブ・ザ・マンスに選出された。この年のレギュラーシーズンは自己最高となる打率.327・214安打・136得点・42二塁打・88打点・46盗塁を記録し、得点は球団新記録となった[6]。 アスレチックス時代2000年シーズン終了後にロイヤルズは5年総額3200万ドルで契約を提示したが、デイモンの代理人スコット・ボラスは契約せず1年待ち、FA市場で試すことにした[7]。そして2001年1月8日にロイヤルズ、アスレチックス、デビルレイズによる三角トレードでオークランド・アスレチックスへ移籍した[8]。155試合に出場し、打率.256、9本塁打、27盗塁と前年より成績が悪化したものの、チームは2年連続でプレーオフに進出し自身初めてポストシーズンへ出場。しかし、ニューヨーク・ヤンキースとのアメリカンリーグディビジョンシリーズ(AL DS)で敗退した。オフの11月5日にFAとなった。 レッドソックス時代2001年12月21日、ボストン・レッドソックスに4年3200万ドルで移籍した。 2002年は自身初めて最終投票でオールスターゲームに選出された[9]。最終的に打率.286、リーグ5位の118得点、自己最多の11三塁打を記録した。 2004年は打率.304・123得点・初の20本塁打・自己最多の94打点を記録した。プレーオフではヤンキースとのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)の第7戦では、優勝を決定付ける満塁本塁打を記録した。カージナルスとのワールドシリーズの第4戦では、先制のソロ本塁打を放つ活躍を見せ、チームの86年振りのワールドシリーズ優勝に貢献した。 ヤンキース時代2005年12月23日に4年総額5200万ドルでのニューヨーク・ヤンキースへ移籍[5]。歴史的な因縁の多いライバルチームへの移籍とあって、大きな話題を呼んだ。それに伴い、その長髪と髭を切り落とした[10]。 2006年はシーズン開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のアメリカ合衆国代表に選出された。 シーズンでは5月2日には古巣ボストンのフェンウェイ・パークで先発出場。凄まじいブーイングと大歓声に迎えられ、ヘルメットを振って応えた。同年は出塁率こそ前年より下がったものの、打率.285・25盗塁、自己最多となる24本塁打を記録し、初めて20本塁打・20盗塁を達成。デレク・ジーターと共にタブルチャンスメーカーとなり、効率よく得点をあげやすい打線を形成[11]。チームの得点は前年より44点上回りリーグ1位の930得点で、それに対しデイモンを失ったレッドソックスは90点減の820点となった[11]。 2007年は開幕戦で両膝を痛め、指名打者として出場する機会が増えた。中堅手として守備範囲も狭まり[要出典]、若手のメルキー・カブレラに中堅手の定位置を奪われ、終盤は中堅手より左翼手で出場する試合が増えた。成績も打率.270、12本塁打と前年を下回る成績で、30二塁打・100得点が9年で途切れたが、ルー・ゲーリッグとスタン・ミュージアルに並ぶMLBタイ記録となった[12]。 2008年は開幕から安定した成績を残し、6月7日のロイヤルズ戦でヤンキースの選手では1934年のマイリル・ホーグ以来となる74年ぶりの1試合6打数6安打を記録した[要出典]。しかし、7月4日のレッドソックス戦でボールを追ってフェンスに激突して右肩を負傷し、初めて故障者リストに入った。 2009年は右翼が狭い新ヤンキースタジアムにも助けられ[13]、自己最多タイの24本塁打を記録(本拠地で17本塁打)。ジーターと入れ替わる形で2番打者を務めた。フィリーズとのワールドシリーズでは、第4戦に同点で迎えた9回表に安打で出塁し、二盗を決めると、がら空きになっていた三塁を一気に陥れ、「1球で2盗塁」を記録した[14][15]。最終的にチームの9年ぶりとなるワールドシリーズ優勝に貢献した。オフにFAとなった。 タイガース時代2010年2月22日に年俸800万ドルの1年契約でデトロイト・タイガースと契約を結んだ。主に指名打者として15年連続となる140試合以上に出場したが、それまで8年連続、15年間で11度記録していた2桁本塁打・2桁盗塁の同時達成はならず、特に本塁打は自身のキャリアを通じて下から3番目タイ、盗塁は下から2番目に低い数字であった。一方で、MLB16年目を迎えた事もあり、通算記録部門では1500得点・2500安打・100三塁打・1000打点などを次々に達成した。 レイズ時代2011年1月31日にタンパベイ・レイズと525万ドルの1年契約を結び、2月3日にはレッドソックス時代の同僚であり、同じくレイズと1年契約を結んだマニー・ラミレスと共に入団会見を行った。4月にラミレスが引退したために、5番指名打者での起用が主になった。史上2人目の200本塁打、100三塁打、400盗塁を達成。オフにFAになった。 インディアンス時代2012年4月13日に怪我で1年間欠場する事になったグレイディ・サイズモアの代役としてクリーブランド・インディアンスと125万ドルの1年契約を結んだ[16]。8月3日にDFAとなり[17]、8月9日に FAとなった[18]。 インディアンス退団後2012年11月には第3回WBC予選のタイ代表に選出された[19]。 その後は公式に引退を発表しておらず、現役を続行して3000本安打を目指す意向を示していた。代理人のスコット・ボラスは、2014年12月頃の取材に対して、声さえ掛かればデイモンは喜んで現役復帰するだろうと語っていた[20]。しかし、その後に契約をオファーした球団はなく、事実上の引退状態にある。 選手としての特徴打撃ボールカウントを多く稼ぐスタイルを特徴とし、構えがやや大きいにもかかわらずバットスピードは非常に速い[21]。従来のパワーも強く、ボールに強烈なバックスピンをかけるため打球を遠くへ飛ばすこともできる[21]。 守備・走塁一塁到達まで4.05秒のスピードを備え、一塁から三塁まででも巧みな走塁を見せる[21]。盗塁の際には一歩目がとても早いため、加速するのが速く、2000年には盗塁王を獲得している[21]。 外野守備では持ち前の俊足である程度カバーしてきたものの、横方向へ走る軌道の捕り方と後方の打球を処理する能力に欠けている[21]。肩の強さにも欠け、2006年の選手投票で『最も肩の弱い外野手』の1位となったこともある[11]。過去に務めたことがある一塁の守備もあまりうまくはないようで、味方の投げた球を後ろに逸らしかけるなど(デレク・ジーターは失笑していた)、安定感がない[要出典]。 人物キリストを意識した長髪と顔の下半分を覆うヒゲがトレードマークで、当時のあだ名は原始人(caveman)だった。シーズンオフのファン感謝イベントではファンの目の前で髭と長髪をばっさり切り落とし、それをチャリティー商品として販売したこともある。 詳細情報年度別打撃成績
WBCでの打撃成績
年度別守備成績
タイトル
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク |
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